じぶんが、読解力に難点があることに
気づいたのは、ついさいきんのことである。
学習障害なのかアスペルガーなのか、
精神科医に相談することもなく、すくなくとも、
日常生活に支障なくすごせているので、
抛っておいているのだが、ただ、仕事が
国語ということもあって、じつはひどく
切実な問題なのかもしれないのだ。
で、ネットで、発達障害のチェックリスト
というのがあったので、試してみる。
「衝動性」喋りが長くなり、喋りすぎと言われる。
これは、ビンゴである。授業は80分喋りつづける。
100分あれば、100分喋れる。よく、ディズニーランドに行くと、
恋人は別れるなんてジンクスがあるが、あれは、
70分待ちに話題がなくなるかららしいが、
まかせとくれ、70分だろうが、200分だろうが、
相手が、静かにしてよってくらい話は続けられる(はずだ)。
ということは、これは発達障害の一部だったのだろうか。
「多動性」一対一で話していても、相手の話に
ついていけないことがあったり、
他のことをついつい考えてしまっている。
これもビンゴだ。よく、わたしの話聴いてないでしょ、とか
よく言われる。う、たしかに、別のことかんがえているかもしれない。
「不注意」よく物にぶつかったり壊したりする。
じぶんの部屋でさえ、よく足になにかがひっかかって
つまずいたりするのだが、これは親父の遺伝だとおもっていたが、
ひょっとすると、という気がおきてきた。
「その他、ADHD的な特性」しないといけないと分かっていても
締め切り間際にならないと行動できない。
そんなん、あたりまえじゃないか。ぎりぎりにならなきゃ、
崇高なかんがえがうかぶわけない。って、それ、病気なのか。
・おっちょこちょい、落ち着きがない、と言われることが
多い。
むかしから、「お調子もん」とか塾の先生から言われていたし、
これは、ひとつの個性かとおもっていたが、もしかすると、
それも、発達障害の兆候だったのだろうか。
そーか、こうやっておもいあたることが多いとなると、
いよいよ、読解力不足は決定的なことなのかもしれない。
たしかに、妻に文章を読ませると、わたしのスピードの
五倍くらいはやく片付けてしまう。え。もう読んだの?
とかしょっちゅうである。
そういえば、小学校のころから、
わたしは読書がきらいで、井山サチコと
本の交換をしていたが、彼女から借りた本は、
ことごとくなにも読まずに返していた。
「エミールと探偵たち」とかいう本が多かったが、
エミールという名前はよく覚えたが、
エミールがどんな活躍をしたのか、とんと理解していない。
なぜなら、いちども読んでいないからだ。
しかし、すきな本が見つかれば、
その小説は、とことん読み返した。
後藤隆二という作家の「天使で大地はいっぱいだ」
という、私小説風の児童文学作品は、だいたいは、
トイレのなかで読んだのだが、おそらく、
300回は読み直したとおもう。
そのおかけで、北海道の美唄という町にあこがれ、
ぜひ北海道に行ってみたいという願望は、
新婚旅行というカタチで実現させた。
おんなじ作品を、300回も読み直しても、
いつも、わたしは新鮮なおもいでその作品に
接することができた。
それは、とりもなおさず、学習障害のおかげなのかもしれない。
そして、後藤隆二さんのように、
ひとを「いい気持ち」にさせるような文章が書けたら
いいなぁ、と、そのときくらいから、
そんな気持ちが芽生えていったのだとおもう。
しかし、文書を読むのがニガテという、パラドクスは
いかんともしがたい壁であった。
泳げないけれど水のなかが好き、みたいな
ものじゃないか。
その原体験があってか、わたしは、
けっきょく大学は文学部に入学した。大学院まですすんだ。
しかし、ひとの論文を読むのがダメだから、
けっきょく、ろくな論文は書けるわけもなく、
教授の道は断念した。ひょっとすると、そんな道も
あったかもしれないと、いまでもおもっている
ただ、エッセイや雑文だけは、いまもそうだが、
こうやって書く。
書くという行為は、三度の飯よりも好きである。
書かずにはいられない、といったほうがよいかもしれない。
あるトークのするどい漫才師は、算数がまったくできないとか、
ハリウッドの男優は、台詞が読めないとか、
顔がまったく認識できない、とか、そういう
アスペルガーは、わりに多く聞くが、そういうひとは、
べつの面で抜きん出た才能を発揮するという。
わたしの読解力不足は、唯一、短歌という
三十一文字くらいであると、それを克服できるようである。
三十一文字くらいなら、なんとか読解できるし、
それにともなう歌評も、書くことには矜持があるし
ひとさまよりも、よく書ける自信はあるのだ。
これが、わたしの才能なのか、じぶんでじぶんのことは
よくわからないのであるけれども、話すことと書くことは、
なかなかよくできると、自覚するのである。
そして、書き始めると、いつも長い。
それは、自覚しているし、わたしのブログの読者の方も、
「あんたのは長いから、とちゅうでいやになる」とか言われる。
たしかに、文章は長い。が、長いけれども、
わたしは、頭のなかに五線譜があって、
それに文章を乗せているので、わりにリズムというのか、
旋律というのか、音読しても、黙読でも、
すらすらって読めるようにしているつもりである。
が、はたして読んでいただいている方に
それが通じるかどうかは、またべつの話だ。
しかし、待てよ。
こうやって、意味のないことをだらだらと書いてしまうというのは、
「喋りが長くなり、喋りすぎと言われる」という、
発達障害のチェックリストの「衝動性」そのものじゃないか、
と、気づくとき、なんだかぞっとするのである。
気づいたのは、ついさいきんのことである。
学習障害なのかアスペルガーなのか、
精神科医に相談することもなく、すくなくとも、
日常生活に支障なくすごせているので、
抛っておいているのだが、ただ、仕事が
国語ということもあって、じつはひどく
切実な問題なのかもしれないのだ。
で、ネットで、発達障害のチェックリスト
というのがあったので、試してみる。
「衝動性」喋りが長くなり、喋りすぎと言われる。
これは、ビンゴである。授業は80分喋りつづける。
100分あれば、100分喋れる。よく、ディズニーランドに行くと、
恋人は別れるなんてジンクスがあるが、あれは、
70分待ちに話題がなくなるかららしいが、
まかせとくれ、70分だろうが、200分だろうが、
相手が、静かにしてよってくらい話は続けられる(はずだ)。
ということは、これは発達障害の一部だったのだろうか。
「多動性」一対一で話していても、相手の話に
ついていけないことがあったり、
他のことをついつい考えてしまっている。
これもビンゴだ。よく、わたしの話聴いてないでしょ、とか
よく言われる。う、たしかに、別のことかんがえているかもしれない。
「不注意」よく物にぶつかったり壊したりする。
じぶんの部屋でさえ、よく足になにかがひっかかって
つまずいたりするのだが、これは親父の遺伝だとおもっていたが、
ひょっとすると、という気がおきてきた。
「その他、ADHD的な特性」しないといけないと分かっていても
締め切り間際にならないと行動できない。
そんなん、あたりまえじゃないか。ぎりぎりにならなきゃ、
崇高なかんがえがうかぶわけない。って、それ、病気なのか。
・おっちょこちょい、落ち着きがない、と言われることが
多い。
むかしから、「お調子もん」とか塾の先生から言われていたし、
これは、ひとつの個性かとおもっていたが、もしかすると、
それも、発達障害の兆候だったのだろうか。
そーか、こうやっておもいあたることが多いとなると、
いよいよ、読解力不足は決定的なことなのかもしれない。
たしかに、妻に文章を読ませると、わたしのスピードの
五倍くらいはやく片付けてしまう。え。もう読んだの?
とかしょっちゅうである。
そういえば、小学校のころから、
わたしは読書がきらいで、井山サチコと
本の交換をしていたが、彼女から借りた本は、
ことごとくなにも読まずに返していた。
「エミールと探偵たち」とかいう本が多かったが、
エミールという名前はよく覚えたが、
エミールがどんな活躍をしたのか、とんと理解していない。
なぜなら、いちども読んでいないからだ。
しかし、すきな本が見つかれば、
その小説は、とことん読み返した。
後藤隆二という作家の「天使で大地はいっぱいだ」
という、私小説風の児童文学作品は、だいたいは、
トイレのなかで読んだのだが、おそらく、
300回は読み直したとおもう。
そのおかけで、北海道の美唄という町にあこがれ、
ぜひ北海道に行ってみたいという願望は、
新婚旅行というカタチで実現させた。
おんなじ作品を、300回も読み直しても、
いつも、わたしは新鮮なおもいでその作品に
接することができた。
それは、とりもなおさず、学習障害のおかげなのかもしれない。
そして、後藤隆二さんのように、
ひとを「いい気持ち」にさせるような文章が書けたら
いいなぁ、と、そのときくらいから、
そんな気持ちが芽生えていったのだとおもう。
しかし、文書を読むのがニガテという、パラドクスは
いかんともしがたい壁であった。
泳げないけれど水のなかが好き、みたいな
ものじゃないか。
その原体験があってか、わたしは、
けっきょく大学は文学部に入学した。大学院まですすんだ。
しかし、ひとの論文を読むのがダメだから、
けっきょく、ろくな論文は書けるわけもなく、
教授の道は断念した。ひょっとすると、そんな道も
あったかもしれないと、いまでもおもっている
ただ、エッセイや雑文だけは、いまもそうだが、
こうやって書く。
書くという行為は、三度の飯よりも好きである。
書かずにはいられない、といったほうがよいかもしれない。
あるトークのするどい漫才師は、算数がまったくできないとか、
ハリウッドの男優は、台詞が読めないとか、
顔がまったく認識できない、とか、そういう
アスペルガーは、わりに多く聞くが、そういうひとは、
べつの面で抜きん出た才能を発揮するという。
わたしの読解力不足は、唯一、短歌という
三十一文字くらいであると、それを克服できるようである。
三十一文字くらいなら、なんとか読解できるし、
それにともなう歌評も、書くことには矜持があるし
ひとさまよりも、よく書ける自信はあるのだ。
これが、わたしの才能なのか、じぶんでじぶんのことは
よくわからないのであるけれども、話すことと書くことは、
なかなかよくできると、自覚するのである。
そして、書き始めると、いつも長い。
それは、自覚しているし、わたしのブログの読者の方も、
「あんたのは長いから、とちゅうでいやになる」とか言われる。
たしかに、文章は長い。が、長いけれども、
わたしは、頭のなかに五線譜があって、
それに文章を乗せているので、わりにリズムというのか、
旋律というのか、音読しても、黙読でも、
すらすらって読めるようにしているつもりである。
が、はたして読んでいただいている方に
それが通じるかどうかは、またべつの話だ。
しかし、待てよ。
こうやって、意味のないことをだらだらと書いてしまうというのは、
「喋りが長くなり、喋りすぎと言われる」という、
発達障害のチェックリストの「衝動性」そのものじゃないか、
と、気づくとき、なんだかぞっとするのである。