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高校生のための言語学教室

言葉とはなにか。

言葉とは記号です。
単刀直入に言っちゃっえば、
「記号」とは、「世界分節の差異化」です。

「分節」とは「ものの見方」のこと。

机にソースがこぼれている。
ひとは、それを汚れとおもうが、
蟻さんは、それを餌とおもい、
それよりちいさな生き物は、じぶんを殺す液体におもう。

分節するとは、そういうことです。

だから、「世界分節の差異化」とは、
対象を区別する方法ということです。

ある国では、牛さんの黒い部分に
すべて名前をつけているそうです。

それは、じぶんの牛と他人の牛を区別するため。
それこそ、世界分節の差異化をしていることになります。

ひとはそれぞれ名づけられています。

それは、そのひとを区別するための記号だからです。
区別、差異化なのです。

 ですが、その記号、言葉とは、
過不足なく語ることができない、
という根本的な課題があるのです。

 つまり、ある感情を抱くけれども、
それを言語化するとき、
それは、言い過ぎたり、言い足りなかったり、
じぶんの感情は、それを正確に表すことができない、
という自明の現実があるわけです。

 この性質をフロイト派のジャック・ラカンというひとは、
「根源的疎外」とよびました。

 らーめんを食べて「うまい」とさけぶ。
でも、「うまい」はそのひとのすべてを語っている
わけではない。言い過ぎたか、言い足りないかの
どちらかなのです。

 ちょっと寄り道になりますが、
そういう性質、つまり根源的疎外を逆利用して
文学は成立しているのです。

 作者は、じぶんの気持ちを100パーセント語れる
わけではないので、だからこそ、
語れなかった領域を読者にゆだねて、
ぎゃくに想像してもらう。

 まるで、開けてない箱の中にプレゼントがあるように、
語れなかった部分は読者に開いてもらう。

 そのほうが、よほど読者の愉悦を増幅することでしょう。

 文学は、そういう根源的疎外の性質を
うまく利用して成立しているということです。


 その言葉ですが、言葉とは語ったものと同等の
語らないものをふくむという性質もそなわっています。

「高い」という語があるなら、その外部に「低い」という語が
存在するはずなのです。

 橋本環奈って可愛いよね、と言えば、
世の中には「可愛くないひともいる」ということを
語っています。

 だって、世界のすべてが橋本環奈だったら、
可愛いという言葉はあるはずないじゃないですか。

 おまえは頭いいねぇ、と言えば、
世の中には「バカ」もいるということを
宣言しています。

 おじぃちゃん元気で長生きしてね、って孫がいう。

それは、おじぃちゃんという生き物は
元気で長生きしない動物だということを
高らかに宣誓しているようなものなのです。

 おじぃちゃんが、もし700年も生きる生物だったら、
元気で長生きしてね、なんて言わないでしょ。
「まだ、生きてんのかよ」って、そんなもんでしょ。

そういう意味では言葉とは残酷なものかもしれません。

また、言葉は対になる語があってはじめて
存在すると語ったのはソシュールというひとです。

 つまり「母」という語は「父」という語があって
はじめて成立する。

 「可愛い」という語は「ブス」という語と
対になっている。


 それは、いままで申し上げてきたことと
言い方を換えたことほとんどおんなじです。

 が、ソシュールというひとは、
それを言語のあいまい性と捉えました。

 そのあいまい性は、ソシュールに言わせれば、
「ゾウ」という語は、たしかに「ゾウ」という発音とともに、
その実像である「象」も類推できる現実があると
説いたのです。

 
つまり、撥音だけの「ゾウ」は、
わたしたちの脳裏には、あの巨大な
パ・フーンと鼻を大きくうごかし、
でかい耳をパタパタさせた動物を連想させる
ことになっている。


 つまり、撥音だけの「ゾウ」、これを記号表現、
その脳裏にうかぶ動物の「象」、これを記号内容、
と、ジュネーブ大学の言語学教室の教授、
ソシュール先生はそうかんがえました。

記号表現を「シニフィアン」、記号内容を「シニフィエ」と
先生は述べましたが、そんなことは、
どうでもいいことかもしれませんが、
評論文では「シニフィエ領域」というような
言い方で平気で登場します。

 
「シニフィエ領域」という語が
出てきたら、その語から想像する世界を
かんがえたらよいのです。


 ですから、ソシュールさんが
かんがえたことは、どうも言語はあいまいだ、
それを、もういちどしっかりしたものにするのには、
いままでの言語というものを取り外して、
つまり、ネグレクトして、
社会のシステム、構造からかんがえなおしたほうが
いいのではないか、ということだったのです。

 言語学者が言語を否定して、
社会システムを再考しようとしたわけです。


 これが構造主義のはじまりです。

 その論文を読んで、あ、そーなんだ、
もういちど、世界のシステムをかんがえることが
喫緊の事態なんだと、おもったひとが、
たとえば、ジャック・ラカンだったり、
レヴィストロースだったりしたわけです。

 このひとたちは、すべて構造主義の
学者としてカテゴライズできるわけです。


 今日は、言葉とはなにか、
というところから、構造主義の発生まで
お話しました。

 では、これにて失礼します。