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抒情性について

「刺身」という語について、連想できる語を列挙してみる。

 

 醤油・わさび・寿司屋・魚屋・鯛・マグロ・箸・まな板皿・つま

 

 かぎりなく湧き出てくる。

これはわれわれが生きているうちにしぜんに身についた、

当たり前の語彙たちだ。

ちょっとむつかしく言うと、

想起したしゅんかんに記憶と結びついて発せられる語彙である。

 

 

こういう当たり前の語彙のことを「言語的布置」と言う。

「言語的布置」は、人によっても差異はあるだろうし、

こと国が変われれば、まったくちがったものとなる。

欧米人に「ロウフィッシュ」という語について、

連想できる語を挙げさせれば、「ソイソース」とも「わさび」とも言わないだろう。

つまり、「言語的布置」というものは、そのように相対的なものなのである。

 

 

 

 では「東京」の言語的布置はなにか。

たとえば「夜・高層ビル・スクランブル交差点・

満員電車・渋滞・スモッグ」などなど。対義語は「田舎」。

この対義語も言語的布置にカウントされる。

 

 

 

さて、そこで、ここに、まったく連関のない語、

たとえば「ポケット」という語を「の」という格助詞で吸着させてみる。

 

 

 東京のポケット

 ポケットの東京

 

 なんのことかわからない。

が、このつながりを見て、われわれは、

ここになんらかの意味を引っ張ろうとする。

 

 

じつは、そこに、ある新鮮さがあり、ひょっとすると「東京のポケット」は、

本国はじまって以来の熟語かもしれない、なんて感じるのだ。

こういうことが、文学的体験のひとつなのである。

 

 

抒情性、つまりリリカルさは、詩的な体験のもとにかもされるものだが、

こうやってリリカルなものは生産されてゆく。

 

 

 サラダ記念日、というタイトルに文学的体験をしたひとは少なくないだろう。

こういう言語的布置から脱した異種の語をつなげることを、

「衝突」とわたしは呼んでいるが、

言語はこんなふうに衝突することで抒情性を発揮するときもある。

 

 

 

 衝突というと、比喩にもそれが妥当する。

とくに直喩・隠喩のレトリックにはそれが発揮される。

 

 

 豚のように太りやがって、

 

 

 これを叙述的比喩という。

ほとんど誰しもが常套的に使う喩である。

「綿のように疲れる」などもこれにあたる。

 

 

 

鉈状の房

 

 

 これを文学的比喩という。

「鉈」と「房」を連結させたのだ。

ほんらいは、どうみてもつながらないだろう語の組み合わせである

 

そもそも比喩は、類似性を基本とする。

「豚」と「太る」に類似性をみいだすのである。

が、詩的要素は、そこにはない。

衝突をすることによってかもされるなにか、それこそが文学性なのかもしれない。

 

 

 

 駒子のくちびるは美しい蛭の輪のように滑らかであった。(『雪国』)

 

 

 

 佐藤信夫は、その著書『レトリック感覚』で、

この喩の難解さにふれ、見たこともないし、

頭では理解も説明も困難だが、なんとなくわかったような気分になる、と語る。

 

 

そして、氏は、通常、類似性に基づいて直喩は成立するとおもわれるが、

じつは、直喩の使用によって類似性が成立するのである、と説く。

 

 

 氏のこの慧眼さにわれわれは舌を巻くのであるが、

われわれが、ふだん作歌している態度こそ、

こういう意識が働いていたのではないだろうか。

 

 文学的体験というものは、

衝突による新鮮さであり、言語的布置の外側にあるもの、

つまり離れた二語の類似性に気付かせる仕事からなる、

と言ってもよいかもしれない。

 

 

 離れた二語は、言語の海に水平に存在していたが、

この二語が組み合わさることによって深度がうまれ、

縦方向のベクトルが生まれる、と言ってもいいだろう。

それを、われわれは含意 (コノタシオン) と言ったり、

シニフィエ領域と呼んだりしている。

 

 

 

 抒情性の発現は、こういうあらたな分節のしかたで、

ある安定性に揺さぶりをかけてゆくものなのである。