高校教師一年生のとき、学校新聞に
新任教諭のプロフィールを書かねばならなかったのだが、
いっしょに入った同僚の国語の教師が、
趣味の欄に「読書」とあった。
まだ、わたしは、かれとは不仲になって
いなかったので、そっと耳打ちしてやったのだ。
「国語の教師が読書って書くのはおかしいよ」って。
本を読む、というのは国語教師の仕事だからである。
かれは、わたしより立派な大学を出ていたのだが、
どうみても、考える力や理解力や収集能力などは、
わたしより劣っているようにみえた。
運動部出の体育専門のようなひとで、
もっとかんたんに言えば、二文字で表せることも
できるが、失礼になるのでここでは書かずにおく。
その五年先輩の
わたしより立派な大学を出ている、
趣味読書の同僚とおんなじ学校出身の先生も
二文字で表せるようなひとだった。
なにしろ、漢文の授業となると、
じぶんの教科書に書き下し文と、その口語訳を
びっしりと書き込んで、教科書が
戦時下の検閲にあったように真っ黒になっていた。
わたしは、ひそかに、かれの教科書を
「耳なし芳一」と呼んでいたのだが、
こっそりわたしの教科書と取り替えてやろうかなんて、
そんな算段、いたずらもかんがえたほどだ。
わたしの漢文の教科書は、
書き下し文どころか、ひとつも朱書きを
していなかったからだ。
もし、教科書を取り替えていれば、かれは、
にっちもさっちもゆかず狼狽したにちがいない。
そもそも、学校の専任教諭は、わたしの知る限り、
能力はひくい。いっしょに参考書を書いた
筑波大学付属の先生は、「なんかすごいな」って
おもったこともあるけれども、あの先生くらいだろうか、
「すごいな」っておもったひとは。
酒席で、「君の好きな源氏物語の女性ってだれです?」
なんて唐突に訊いてくるものだから、
返答に窮したものだった。すごいでしょ。
(おかめ面した女性なんて興味ねえよ。
それに全部読んでいないからわからない)
と、とうてい言えなかったし。
わたしの勤めていた学校に
毎年、教育実習生がくる。ほとんどが卒業生である。
前にもうしあげたが、生徒は普通科なのだが、
普通以下というものも多くいた。
たまたま、わたしの教え子だった大西君(仮名)も
実習にくるというので、わたしが指導教諭となった。
大学生になった大西君にあって、
かれが開口一番、言ったことは
「指導書ありますか。お父さんが、
指導書みせてもらえって言ってますので」だった。
大西君のご尊父は、中学の国語の教員なのだ。
わたしは、まず吃驚した。
教育実習生が、「指導書を見せろ」と言うことに。
わたしも、当時20年以上教員をしていたときだが、
まず、指導書というものを見たことも
使ったこともなかったからだ。
たしかに、教科書の何倍も厚さの指導書というものが、
各教員に配布され、あれには、事細かに、
語句の説明やら、段落相互の関係やら、予備知識やらが、
網羅されているが、それを使ってしまったら、
だれしもおんなじ授業になる可能性があるし、
授業のオリジナリティは減殺するにきまっている。
なぜ、そういう意味になるのか、そう考えられるのか、
指導書はそこに行き着くまでのプロセスが書いておらず、
ただ、結果だけが並んでいるわけで、
だから、生徒さんも指導書的授業を受けていると、
つまりは結果だけを覚えて、いわゆる「考える力」というものは、
養えずにおわってしまうのである。
そして、試験の翌日にすっかり忘れるという日々である。
だから、学校の授業はつまらないっていわれるのである。
最後に勤めていた神奈川のK学園での
春の国語科の会議で、「指導書どおりに教えましょう」と、
濱谷美代子(仮名)が発言したときは、椅子から
転げ落ちそうになってしまった。
指導書どおり、それは指導ではなく、移動である。
さて、わたしは、大西君に、指導書なんてありませんよ、と
きっぱりと言ってやって、かれには教材研究をすることを
指示した。ようするに、大西君は、教材研究をするということを
念頭からネグレクトしていたのである。
つまり「指導書見せろ」という発言は、
教材研究はしませんので、その虎の巻を見せてください、
と、はなから白旗を振っている、敗軍の将を意味する。
ということは、大西君のご尊父も推して知るべしである。
あとから聞いたことではあるが、大西君、
すこぶるわたしを怨んでいたそうである。
だれしも、じぶんは悪くない、悪いのはおまえだ、
という考えで生きているから、
そうおもうのはいたし方ないことである。
が、しかし、大西君のような教師が再生産され
世の中に送り出されたら、ひどく不幸な生徒さんが、
ぞくぞくと輩出されることになるだろう。
ま、そういう輩のあつまりが、学校の職員室だから、
わたしは、四校ほど高等学校の職員室を
経験しているが、五十歩百歩だったことは言うまでもない。
ところで、いま、予備校の教壇にしか立っていないけれども、
その生徒さんに趣味はなに? って訊くと、
ほとんどの生徒さん、
男女ともども異口同音「ありません」と答える。
わたしは、この事況に「いま的なもの」をかんじるとともに、
なにか荒涼とした将来をおもってしまうのである。
高度資本主義が、個人主義をうみ、かつ、
その内容よりも、その場のポジション取りに人生の
主たる目的がシフトしたことは、前にもうしあげた。
職種よりも、有名企業の部長の椅子、それである。
じぶんの趣味の延長の会社にいって、
金銭的にはともかくも、やりがいのある仕事をする、
という考量がなくなってしまったのだ。
だって、趣味がないのだから、
じぶんの楽しみだってわからないじゃないか。
趣味とは「何か」を作ることである。
釣りなどしていると、それが身にしみてわかるが、
わたしの友人たちは、竹で竿をこさえたり、
電気ウキをつくったり、じぶんなりのシンカーを作ったり、
そしてわたしどもにそれをロハでくれるのである。
わたしも、年に数回、沼津に行くのだが、
そのたんびに、なにか新しいものを、工作してもってゆく。
魚を釣るということよりも、
その前段階の準備のほうがむしろ楽しいのである。
文化人類学者レヴィスとロースがいうところの、
ブリコルール(工作的人間)そのものである。
スポーツが趣味というひとがいるだろう。
それも、やはり、こんどはこんなスタイルで
動いてみようか、とか、じぶんの身体を「作る」のだから、
「作る」という姿勢にはかわりない。
この「作る」という行為は、高度資本主義とともに、
姿を消してゆく。
仕事をつくる。家庭をつくる。コミュニティをつくる。
趣味をつくる。
これに一役買ったのは、携帯電話であることに
まちがいはない。
なんでも、手のひらですませてしまう。
わかんないことがあれば、図書館に行かずとも、
グーグルで調べればよい。
須佐能の尊が川沿いを歩いていたら、
川上からある「もの」が流れてき、
それを見た須佐能の尊は、上流にひとが住んでいる、
ということを察する。そして、川上に歩いてゆくと、
ひとりの女性が泣いている。
理由を聞けば、頭がたくさんついている蛇に
くるしめられているという。
それが、ヤマタノオロチの話で、古事記に所収されている。
さて、川上から流れてきたものはなんでしょう、
という発問を教室でしたところ、
さっさと「箸!」と答える女子学生がいた。
正解である。
よくわかったねってわたしが言うと、調べました。
とあっさり。
なにひとつ考えずに、
グーグル男爵にお伺いを立ててしまうのである。
これじゃ、想像力も思考力も養えない。
この須佐能の尊の話は、すでに、
古事記の時代、8世紀には日本人に「箸」の文化が
あったということを示す、だいじな資料だったわけだが、
そういうことを教室で言っても、生徒さんたちは、
「ふーん」って感じでなんのおどろきもなかったようだ。
だいじょうぶかな、日本の未来は。
「作る」とは「創造」である。
「創造」は不便のカオスのなかから湧き出る宝である。
便利すぎるスマホと、
完全に凝り固まった資本主義のシステムのなか、
われわれは、「じぶん」というものをどこかに置いてきて
しまったのではないか。
「じぶんらしい生活」あるいは「生活を作る」ということが、
ほんとうにあるのか、それさえもわからなく
なっているのではないだろうか。
いま、ネット難民は東京都に4000人いるそうだ。
家も職も家庭も恋人もなく、
ただネットカフェで暮らしている人たちだ。
スマホがあれば、そしてそのゲームさえあれば、
異性はいらないし、家も職もいらないのだ。
ましてや、趣味などもてるはずもない。
スマートフォンが趣味というならば、実生活はゼロで
スマートフォンに人生をささげた、ということなのだろう。
ニンゲンはどうしても、不便も忌避し、
論理的負荷の少ないところに傾きたがる。
それには、携帯がもっとも有効である。
便利だし、へィシリィ、言うことは聞いてくれるし、
いつも助さん角さんのようにそばにいてくれる。
ネットカフェで暮らせるなら、
もう働かなくてもいいやと、
恋人なんてめんどうだわい、
と、個人主義の極北のような現況が、
いま、具現化されている。
働くモチベーションも、家庭を持とうとする意欲も、
将来、未来を照射するエネルギーもすべて
かなぐり捨てて生きている。
これじゃいけない、
じぶんはいつか幸福になるぞ、
と、そういった、未来を見つめずに、
将来よりも現在に向かうことで、
自己を肯定する術を身につけている。
自己を肯定するというより、
「いま現在」のじぶんをかんがえないように
しているのかもしれない。
現実からの逃避である。
逃避するのに、やはり携帯いじりが
必要不可欠なのである。
文化人類学者のレヴィストロースは、
これからの社会で、理想的な社会を構築できるのは、
ひょっとすると日本しかないかもしれないと、
そう説いていた。それを「極東の哲学」と呼んでいたのだが、
いやいや、いまの現状は、「極東の堕落」といって
差し支えないようである。
趣味のない生活。いや、生活のない生活。
夢のない生き方。有能感さえ、もてない生き方。
そんな負け犬を、けっして負け犬にさせない携帯電話を
右手に持ち続け、前を見ずに、ただ画面に顔をおとし、
だれも寄せ付けずに、異性もいない、友もいない、
金もない、生きるモチベーションさえ失いかけている、
そんな若者が、いま増殖しているのではないだろうか。
それなら、バカでもいい。
趣味は読書ですって言える国語教師のほうが幸せである。