いまは、年中無休の仕事をしているので、
丸一日休み、という日は皆無、ゼロである。
つまり、休息日がない。
よく巷では、過労の話が話題に出るが、
過労を問題にするのは、休日がある人の話で、
はなから、休みが一日もないひとは、働きすぎなどと
嘆いていられないのである。
むかしは、日曜日が休みだった。
そのときは、たまに水族館に行ったり、
動物園に行ったりもした。
職場の仲間とは、美術館にも出向いた。
ゴーギャンとか東京のデパートにやってきたときなど、
すすんで出かけたものだ。
むかしから気になっていたことなのだが、
水族館で、あの名前のプレートを見ながら、
その名前を声に出して言うひとをみかける。
「皇帝ペンギン」
なんでこれを読むのだろう。それも声に出して。
黙読でいいじゃないか。おまけに、家族であれ、ともだちであれ、
いっしょにいたひとに同意を求めるかのように、
「皇帝ペンギンだって」と「だって」をつけるのだ。
見りゃわかるじゃないか。
その水族館での皇帝ペンギンの
そのグループにおいての最初の発見者に
なりたいのだろうか。
いや、そんな優越感など微塵もないだろう。
そもそも、それが優越感に直通しているともおもわれない。
あるひとは、開放感がそうさせるのではないか、
と言っていたが、あるいはそうかもしれないし、
それだけじゃないかもしれない。
管見であるが、わたしは、空気感の共有を
無自覚にした結果じゃないかとおもっている。
「皇帝ペンギンだって」
によって、何人で来たかわからないが、
そのパーティ全員に呼びかけることによって、
水槽のむこうにいる生き物と、こちらでそれを見る
グループとが、ある一体感でもって、
その場の空気を共有することにはならないだろうか。
その呼びかけは、大勢の観客がわんさかいる
水槽の前で、そのパーティにしか響かず、
そのパーティだけの「輪」が形成されることには
ならないだろうか。
そこに、どんな喧騒のなかであれ、
ほのぼのとした空気がながれるわけである。
だから、水族館のプレートの音読は、
家族間のほうが、より顕著なのではないかと
おもうのだ。親が子どもに発声するという絵が
もっともしぜんにおもえる。
それは、もちろん、動物園でも妥当する。
「アフリカゾウだって、コハルちゃん」
ま、こんな具合だ。
しかし、これが美術館となると、そうはゆかない。
美術館で「『落穂拾い』だって」なんて
騒いでいるひとを見たことがない。
水族館や動物園と美術館とでは、なにが違うのだろうか。
で、すこしかんがえてみた。
美術館に展示されている作品というものは、
高級な芸術品である(ことが多い)。
つまり、対象物、展示品は、われわれとは
ひどくかけ離れた「もの」であって、
その崇高な「もの」とわれわれとがあいまって
共有できるものではない。
作品からうまれでるアウラを感じ取り、
その美におそれたり、感心したり、おののいたりする。
壁にかけられているそれと、こんなに身近に
接しているのにかかわらず、見ているこちら側とは
一線を画するなにかを含有しているからこそ、
その絵の説明であるプレートを見ても、
わたしたちは、黙読するだけにおわり、
ましてや、そのタイトルを発声して
表明することなどはけっしてしないのではないか。
あるいは、絵画とは絵画と個人との向き合い方であって、
どんなに身近なひとがいようとも、
絵画との付き合い方は、
一対一で対峙し、そこに画家の精神なり、主題なりを
真摯に受け止めようとする、
そういう鑑賞態度が、
われわれをむしろ寡黙にさせるのじゃないか、
などとわたしは、わたしなりの結論めいたものを
搾り出したのである。
で、わたしは、そんなことを考えながら、
わりに頻繁に電話しているなかなか気の利く女性に
なにゆえ、美術館では、音読しないのかの
わたしの説を披露したところ、彼女は言下にこう言った。
「美術館って、しゃべったりしてはいけないものよ」
「・・・あ、そ」