ジェンダーという語彙が
人口にカイシャされてずいぶん経つ。
男女は平等である。
父権性イデオロギーなどは「悪」なのだ。
だから「らしく」という語が死語となる。
「男らしく」「女らしく」
いまそんなこというと眉をひそめられる。
放送禁止用語もしかりで、
その対象はいまだに存在するにもかかわらず
言葉を取り替えてセーフにする。
ただ、「男」と「女」は平等であるはずだが、
その違いはあるべきなのではないかと、
わたしはおもうのだ。
ママゴトで坊やが父親になり、お嬢さんが
リカちゃん人形を抱えて夫の帰りを待つ。
そこに「温かみ」が生まれてくるのではないか。
ママゴト遊びは、男女の分担を象徴する
社会的訓練だったのではないだろうか。
(むかしの遊びにはかならず社会の縮図が投影されていた)
で、そんな窮屈な世の中で、
大きな団体を敵にまわすほど度量があるわけでもないけれど、
わたしはあえて言いたいことは、
「男」と「女」はべつの生き物だ、ということである。
これは、偏見かもしれないし、たぶん偏見なのだろうが、
女性は、わりに「むかしはこうだった」
「あのとき、ああすればよかったのよ」とか
言う気がする。
それは、ただしい(はず)なのだ。
なぜなら結果が分かっているから。
いや、間違っていないけれども
正しくないことも世のなかにある、といってもいい。
あの時、三筒を振らなければ、あいつに
マンガンをふらずに済んだんだ。
そういうのを後の祭りという。
後の祭りとは、間違っていないけれども
正しくはない。
つまりは、「あのとき、ああすれば」と言われても、
言われたこちらは、どうすることもできない。
返答不能になるだけだ。
こういう返答不能な事況を「呪い」と呼ぶのだが、
まさに、女性は無自覚に「呪い」の呪文を他者にかけている。
これもどちらかと言えば偏見であるが、
世の男性は「うん、だから明日どうするかをかんがえようよ」と言う。
過ぎたことは仕方ないので、その善後策をかんがえようと言うのである。
が、そのとき、だいたい女性は黙る。
男女に限らず、「後ろ向き」な言動を「女性型」と呼び、
「未来志向」な考量を「男性型」と呼ぶとする。
これは、蔑視でも差別でもなく、そう規定しただけである。
さいきんテレビをとんと見なくなったが、
画面上のコメンテーターが「ええ、それはいけませんね」とか、
「あのときああすればよかったんじゃないですか」とか、
けっきょく、過去の出来事の再編成をするだけにとどまっている。
なんか年端のゆかないモデルあがりのような子が
しかつめらしく、うーん、とか言っているけれど、
その子が、「これから未来はこうすればどうですかね」とか
言ってみろ、と言いたくなる。
テレビのコメンテータはおおよそ、
この「女型」の人種なのである。
橋下徹さんくらいかな、未来志向は。
好き嫌いはべつとして。
なぜ、沈没したのか、三十度の傾きはなぜか、
とか、事故の原因ばかりで何時間も放映するが、
今後の働く人のメンタリティまで含めて、
どのような対策が必要か、など語ってほしいものである。
だめな上司の三拍子は、
「うえむき、うちむき、うしろむき」だが、
この「うしろむき」こそ「女型」である。
そんなことを床屋さんで申し上げていたら、
ご主人、
「そんなひとがいたら、国会議員になっていますよ」と笑っていたが、
安倍さんなんか、その点、エライとおもうね。
男のなかの男である。
モリカケ問題も桜の問題も、
いっさい、うしろを向かいのだから。