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ゲームの功罪

 電車のなかで大人も子どもも

携帯をいじっているひとをよく見かけるが、

そのほとんどがラインか

ゲームじゃないかとおもう。

 

とくに、対戦モードのゲームやぷにょぷにょ。

(よくゲームの名前をしりません)

 

 老若男女、猫も杓子もゲームである。

わたしは、とくに子どもにゲームをさせることに

反対である。

 

 ゲームは、子どもの想像力を抹殺させる。

ゲームを観照的にみれば、与えられた情報を、

指で操作して、与えられたミッションどおりに

それをクリアすればよい、というものだ。

 

それは、つまり、インプットしてくる情報を

にんげんがアウトプットするということであり、

しかし、想像、あるいは創造は、

まず、アウトプットすることから

はじまるわけで、ゲームの思考回路と

想像あるいは創造の思考回路は、

ちょうど間逆なベクトルということになる。

 

 ディズニーランドも、すべてむこうから

与えられたものをこちらが享受するという

図式である。だから、かんがえなくていい。

かんがえなくていい、ということは、想像力を

発揮しなくていいということにほからない。

 

 なにしろにんげんは、

知的負荷のすくないところに、傾くものだから、

かんがえなくていい、という空間ほど、

快楽をあじわえるとおもってしまう。

 

 しかし、ほんとうの快楽とは、

みずからの努力によって、みずからのうちから

湧き出てくるものなのだ。

 

 イチローが日米通算3000本安打を打つ

すこし前のインタビューで

「ぼくは、この記録を達成して快楽を味わいたい」と、

そう話したときに、わたしはイチロー選手に

すっかり感心してしまったのだが、

快楽とは、みずからの努力によって

つむぎだされるものだ、ということを

かれは承知していた、ということなのだ。

 

 一流選手というものは、そういうものなのだろう。

 

 話をもどすが、

どちらかといえば、ゲームには模倣性が

底流するだろう。きっと、これとおんなじ場面を

どこかのだれかもしている、という共通認識が

ゲーマーにはあるのじゃないだろうか。

 

 このゲームは唯一無二、このわたししか、

していないゲームなのだ、というおもいは、

おそらくゼロだろう。

 

 世界のだれかがじぶんより早く、このゲームを

クリアしているのだろうという暗黙知があって、

無自覚のうちに、顔のないだれかをひきつれて、

ゲームにいそしんでいるのかもしれない。

 

 それは、創造性というより、模倣性の性格にちかい。

模倣性からうまれるのは、欲望である。

 

 だれかがもっているからじぶんも

欲しくなる。これが欲望であって、

欲望の本質は模倣である。

 

 だから、欲望には創造性はない。

 

 では、どうやってこどもたちは

想像力・創造性を養うのか。

 

 ひとつは、昔話である。

 

 母親の枕辺でする昔話が、こどもの想像力・創造性を

開花させるのである。

 

 そもそも、母国語というわけで、父国語というものはない。

言葉とは母親が子につたえるものなのだ。

 

 部屋の電気を消し、むかしむかし、あるところに、

と語る。

 

 このときは、話の内容が抽象的でなければならない。

 

時は永禄三年、ところにあっては関が原、

なんて講談のようにやってはいけない。

 

 こどもは、目をつむりながら、

じぶんで「むかしむかし」の時代設定をする。

「あるところ」と言われながら、

「あるところ」に色付けをし、また、

そこに「おじいさん」と「おばあさん」の顔を

おもいえがく。

 

 こうやってこどもは、初期の想像力・創造性を

養ってゆくのだが、いまの母親は、

すぐに携帯ゲームを手渡して、それでやってなさい、

これじゃ、バカを生産するだけである。

 

 たしかに、器用な子ができるかもしれないが、

器用でもバカではしかたないじゃないか。

 

 こどもにとって、ようするに夜の母親が

もっともだいじなのである。

 

 子が寝につくときに母親がそばで見守る、

語りかける、ということをしておかないと、

生きる力の微弱な大人になってしまうのだ。

 

 これから、関東に大地震がくることは、

まず確実視されているわけで、そんなとき、

どうやって生きてゆくか、サバイバルするか、

これは、親の責任である。

 

 

 補給物資をまって飢え死にからのがれるのか、

あるいは、生きる力をつけて、たくましくゆくのか、

しっかりと子育てをしなくてはならないわけだ。

 

 

 ましてや、夜にホステスなんかして、

こどもをおきざりにするような

崩落した人生のひとは、

子育てに無責的であるといわざるをえない。

 

 わたしは、そういうひとを二人ほど

知っているが、こどもが素直に成長することを

祈るばかりである。

 

 きょうも夜は電車に乗って仕事に行くが、

じつは、わたしは、

車内では将棋ゲームをしているのである。