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社会と世の中

 世の中と社会とはもちろん違う。

 

さいきん気候が不順だね、世の中おかしいね、

とは言う。が、社会おかしいね、とは言わない。

 

社会、societyの訳語として明治以降にうまれた

言語であるからとうぜんなのだが、

われわれが社会という語をつかうときは、

資本主義システムとか、民主主義システムとか

システムのなかにあるときに限られる。

 

 むかし、近所の豆腐屋に

「おから、ありませんか」と訊いたら、

「今日はありません。そういうシステムになってますから」

と、その若女将から言われたが、

なんか、すこぶる違和感と嫌悪感を刹那にかんじたのは、

豆腐屋さんにシステなんてあるのかよ、という

おもいからだった。

 

 このシステムという語は、じつは日本語に訳しづらい。

体系とか辞書にはあるだろうが、どうもしっくりこない。

つまり、日本語にならない語彙なのだ。

もちろん、だからやまと言葉に置きかえることもできない。

 

 わたしたちは、日本語にならないような語を

さも、当たり前につかうことができる器用な国民だから、

システムという語も、そんな言葉もあるはずだ、と

おもって使っている。

 

こういう融通の効く便利なことを実用主義、

いわゆるプラグマティズムと呼ぶのだが、

このプラグマティズムがはたらいて

日本語にないような概念をじょうずに

受け容れることができる。

が、それは地についた言語ではない。

そんな言語を使用するひとを

養老先生は、脳化された社会的身体とよぶが、

このシステムは社会的身体のなかだけで

有効な語彙なのだ。

 

世の中という概念はいささか違う。

江戸時代までは、みな世の中で生きていた。

システムなんかない。自我もなかった。

太陽が昇り、農民は田を耕し、商人はあきないし、

武士は君主を守っていた。

 

自然と同化して世の中の要請によって

生きていたといってもいい。

 

 わたしたちは、この世の中と社会と、

うまくふたつをファジィにわけながら、

現代を生きている。

 

 金がすべてだ。夢は二の次、出世だ。学歴だ、

というのは社会の中の話である。

 

 陽が沈んだから家にかえって湯でも沸かすか、

というのは世の中である。

 

 言語も、この二系統がある。

社会的言語と世の中的言語である。

 

「さわらびのもえいづる春になりにけるかも」などは

世の中の言語である。

 

 「Parco三基を墓碑となすまで」には

社会的言語が混入している。

 

「愛」という語も外来語だから、世の中の人はつかわない。

社会のなかに組み込まれた脳化された社会的身体でのみ

妥当する。

 

ま、サ変動詞をくっつけて「愛する」など

院政期には使われているが、やはり、

ピンとこない気がする。

 

だから、わたしは、平気で「愛している」という語を

無自覚でつかう歌人にたいして、眉をひそめて、

作品を拝見するのだが、ま、社会の中に組み込まれている

「システムにんげん」なのだと諦念することにしている。

 

 いまの時代は、経済が暴走し、

生活、いや暮らしと経済、すべてが

ばらばらになっている、どこに暮らしがあるのかわからない

と指摘するのは哲学者内山節である。

 

 内山氏の説はレヴィストロースの言説によるものだが、

レヴィストロースは、いまの世の中はすべてが

混然一体化からすっかり乖離してしまったと

嘆いていたのだが、このすべてを包括するような

社会を日本に見ていた。

それを極東の哲学とかれはよぶのだが、

極東の哲学にはそれがあります、と。

 

 おそらく、世界的文化人類学者は

日本の農家を見ていたのではないかと、

内山氏は語る。

 

 農業には、経済も暮らしも仕事も趣味までも、

どこか一体化しているところがあるのだろう。

 

そして、それがレヴィストロースの理想的な社会なのである。

 

まさか、レヴィストロースが社会と世の中という二語の

二項対立を理解しているとはおもわれないが、

まさに、かれの言及するところは

世の中的生き方なのである。

 

 わたしは、人間的なふるまいはこの

世の中的行為にあると信じている。

 

 社会にどっぷりつかると、

たしかにコクーンのなか、あふれる文明に恵まれ、

好奇心も夢も趣味もなく、ゲームであけくれることはできるが、

ほんとうの幸せとはなにか、それは認知的斉合性のなかに

うずくまってしまったのではないだろうか。

 

誤解を恐れずに言えば、幸せは世の中の中にある。

 

豆腐屋も世の中のなかで仕事をしてほしいとおもうのだ。

 

 知り合いの方の伯父さんに

もと新聞記者で、敗戦をむかえ

こんな記事書けるか、と、さっさと仕事を辞めて、

九州の山奥で、仙人のように暮らしているひとがいたが、

その方は、「道」とつくものをほとんど

身に着けていて、剣道、華道、書道、なでもござれ、

そしてほぼ自給自足の生活をしていたそうだ。

 

 歯がないので、食べられるのは熟した柿というが、

ほかにもなにか食していたのだろう。

 

 そんな山奥に、わたしの友人が遊びにいくと、

「みよちゃん、こんど冷蔵庫いれたから、なんでも

そこに入れたらいいよ」

と、彼女が冷蔵庫を開けるともわっとしている。

生ぬるい。

あれ、とコンセントを探すと、

この家にはコンセントがなかった。

電気がこの家まで来ていなかったのである。

 

 まさしく、世の中のひとだったのだ。