Menu

お得なアプリでクーポンGet!

店舗案内

「て」の話

 接続助詞「て」の上下は主語がかわりにくい、

というのが、予備校界の定説である。

 

 だれが、言い出したのかもうずいぶん

歴史があるから、その「言いだしっぺ」を

探すことは困難だろう。

 

 そもそも、「かわりにくい」という

このあいまいな言い方になんの意味があるのか。

 

「かわりにくい」ということは「かわることもある」

ということを同時に宣言しているもどうぜんである。

 

「わたし、あなたへの気持ちは、かわりにくいのよ」

 

 なんか、いつか別れる予感がする。

 

 で、じっさい、「て」という助詞を意識して、

たとえば、古文の文章にあたってみると、

なんのなんの、「て」の上下で主語がかわることなんて

ざらである。

 

 しかし、予備校界では、これをエンエン語っている。

単純接続の「て」の上下は

主語が変わりにくいんだよって。

 

 この主悪の根源は、マドンナ、荻野綾子である。

荻野綾子という予備校界のスターが、

「て」の上下は95パーセント主語が変わらない、

そう教えているのである。

 

 

 じつに、キャッチーなフレーズだ。

古典業界に、数学の確立を持ち込んだところなんど、

画期的なことなのだが、国語をちゃんとまなんだものは、

パーセンテージに還元することなど

おもいもよらないことである。

 

 「総索引」というべんりな書物があって、

たとえば『伊勢物語』のなかに、「て」という助詞が

何例あります、というのがこまかく掲載されている。

だから、『伊勢物語』に「あはれ」は何例あって、

その用例はこうです、というゼミの発表などには、

すこぶる重宝する書物なのだ。

 だが、その「総索引」は、書物ごとであり、

「総索引」のない書籍だってある。

 

 つまりだ、九十九里浜の砂くらいに

書物が氾濫する世の中において、

「て」という助詞をすべてあらいあげ、

調査し、そのうち95パーセントの確立で、

主語がかわっていない、というのなら納得するが、

そうではないのだ。

 そんなの無理にきまっている。

 

 つまりだ、テキトーな「勘」で、

95パーセントと彼女は言っているのである。

 

 「変わりにくい」というセンテンスを

「95パーセント」という数学用語に移動させた、

ということである。

 いうなれば「むちゃぶり」っていうやつだ。

 

 しかし、受験生は、このフレーズに飛びついた。

おぼれるものは藁にまみれて達者でな、

いや、ちがう、おぼれるものは藁をもつかむ、

こういうインチキにすぐひっかかるのだ。

 

 だいたい、受験生だけでなく、人びとは、

知的負荷のすくないものにとびつく傾向にあるから、

マドンナの言うところは、バカにはちょうどいいのだろう。

 

 いま、授業で、『和泉式部日記』の冒頭を

生徒といっしょに見ているが、「て」の上下で、

宮の動作になったり、小舎人童の動作になったり、

主語がばらばらである。

 

 (敦道親王は)いとけぢかくおはして、

「つねに参るや」と問はせおしまして

(小舎人童が)「参りはべり」と申しさぶらひつれば、・・

 

 

敦道親王はたいそう親しみやすくいらっしゃって、

「いつも彼女のところに参るのか」とご質問になられるので、

「はい」と申しましたところ・・・

 

と、小舎人童が和泉式部に語っているくだりだが、

この本文に「て」が二度あるが、

その「て」の上部の主語はすべて、敦道親王の動作であるが、

「参りはべり」の動作主は小舎人童である。

 

この一例をみても、95パーセント主語が変わらないなら、

これは例外の5パーセントにカテゴライズされるのだろうか。

ちなみに、小舎人童は「こどねりわらわ」と読み、

宮中の掃除や灯りとりの童女である。

 

 つまり、ようするに、古代のひとは、主語という

観念があんまりなかったのではないか、とわたしはおもう。

 

 

 ♪ シャボン玉とんだ

   屋根までとんだ

 

 

 この「屋根までとんだ」の

「とんだ」は「シャボン玉」である。

が、「屋根までとんだ」だけをじっとみていると、

「屋根」が「とんだ」ようにもみえる。

 

 

 では、このフレーズはどうだろう。

 

 

 ♪シャボン玉とんで

屋根までとんで

 

「シャボン玉とんで」と、接続助詞の「て」に

替えてみた。「とんで」の「で」は「ん」の音のあとだから、

「て」が濁って「で」となるのだが、

こうやってみると「屋根までとんで」は、むしろ、

「屋根」がとんだようにみえるじゃないか。

 

 ようするに「て」という助詞は、

ぎゃくに主語を変えようとする

ちからをもっている、ということなのだ。

 

 換言すれば、「て」のあとから、別件を添付しようとする

はたらきがある、と言ってもよい。

 

 

 雨降って地固まる。

 

 

この例を見たって、「雨が降る」という主述の文に、

「地が固まる」というべつの主述の文が

対等の関係で付け足されたことになる。

 

 が、ここで大事なことは、「て」の上下は、

テーマ、内容がおなじだ、ということだ。

 

 「雨が降る」という、人間関係のもつれを比喩し、

「地固まる」という、和解、親和を比喩し、

もつれたあとに仲がふかまる、というひとつのテーマとして、

文を完結させているわけだ。

 

 つまり、「て」という接続助詞は、

上下で、べつべつのものがたりを紡いで、

上下、内容を対等におなじくするはたらきがある、

ということなのである。

 

 助詞ひとつとっても、

なかなか深いじゃないか。