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ハイデガーから学ぶ不倫の結末

 世の中は「恋する惑星」、恋愛おおいによろしい。

いまの若い者は、恋人未満がすこぶる多いらしく、

むしろ、壮年の恋のほうが、お盛んらしい。

 

 初々しい男女の恋物語、ようやく恋人をみつけた中年。

上司との禁断の恋。妻子持ちの男との密会。金曜日の妻たち。

妻子持ちどうしの、不倫劇。

 

 どのような形態であろうと、それでも恋は恋、である。

 

ただ、もっとも始末にわるいのは、妻子持ちどうしの恋である。

この、隠密裏の恋の鉄則は、

「けっしてひとに見られてはならない」

ということだ。それも、近しいひとに見られたら、

そのあとはどうなるか、しばらくかんがえてゆく。

 

そのためには、まず、ハイデッガーの内在性について語ろう。

 

にんげんの中身(内存在)についてハイデッガーは

こう語っている。

 

 

にんげんというのは気分屋である。

 

この気分というのは、みずからの内なるものから

じわじわって出てくるものであるとおもわれるが、

それは、じつはそうではなくて、

外界の影響をつねに受けてそうなるものらしい。

 

 

こういう気分を「情状性」という。

 

 

そして、この「情状性」、つまり気分は、

にんげんの意思などではなく、

じぶんが、ある状況に抛り出されたところで

起こっている。

 

これを「被投性」という。

 

つまり、勝手に情報としてじぶんに

与えられてしまう、ということだ。

 

まとめて言えば、「気分」という「情状性」は「被投性」である、

ということである。

 

また、気分を感じとることができたとする。

 

この感じとることを「了解」という。

 

たとえば、明日、ディズニーランドに行くことになった。

 

うれしい。これが「情状性」。

 

きっと楽しい一日になるに違いないと感じる。これが「了解」。

 

ま、夢の国とかいいながら、

そこから帰ってきた子供たちの集団を電車などで

見かけるが、みんな疲れきって、闘いに負けたように

眠りこんでいる、ああいう風景を見ながら、

夢の国からの帰国は、戦闘だったのではないかって

おもうのだが、ちがうかな。

 

 

そして、また、「了解」事項を可能にしようとする気持ちが

もし働けば、それをハイデッガーは「投企」と呼んでいる。

 

「企投」ともいうが、意味はかわらない。

どちらもハイデッガーの術語である。

 

 

よし、たのしい一日にするぞ、たとえ

闘いに負けたようになったとしても。

 

という可能性の示唆は了解事項のうえの「投企」であり、

「解釈」という概念とも共通する。

 

 

むつかしく言うと「解釈は、了解事項において

投企されたさまざまな可能性をしあげること」なのだ。

 

 

そして、最終段階が「陳述」「語り」である。

 

ディズニーランドに行くことが決まって

うきうき気分の「情状性」は、

「被投的」であると同時に、

いい一日になるだろうという予見は、

「了解」され、「投企」され、「解釈」されて、

ついには、「陳述」されるのだ。

 

 

「ね、聞いてきいて、明日、ディズニーランドに行くんだ」

 

これが、「陳述」「語り」である。

 

 

 そこで本論。

 

 

 

ある妻子ある女性が、妻子ある男性と、

とある飲み屋で、たとえば、抱き合っていたとする。

(あるいは、もっと激しいことかも)

 と、それを女性の友だち、ママ友に見られてしまった。

これは、じつは、けっしてあってはならない

鉄則を犯してしまった、取り返しのつかない事態である。

 

 

 目撃した女性は、どうおもうか。

 

 そもそも、ニンゲンの骨格は、

嫉妬心と自己中心的感情で

できあがっているから、なおさらなのだが、

この現場を、かなりの衝撃で見たはずである。

 

 それまで、楽しく飲んでいたはずなのに、

とんでもないものを見てしまった。

これこそ、「被投性」であり、

激しい量の「情状性」が彼女を覆うだろう。

 

 と、目撃した女性は、つぎになにをおもうか。

 

これからさき、このふたり辿るだろう道である。

 

今日なのか、つぎの土曜日の夜中なのか、

とにかく、さまざまなものがたりは、彼女のなかに、

醸成されるはずである。

なぜなら、それが、まさしく「投企」であり、

「了解」であるからだ。

 

 「あら、いいわね、お盛んで」で

なんて、笑ってすますことはまずないだろう。

 

 ニンゲンの、正義感と、嫉妬心とがあいまったとき、

その人の「解釈」は、いかなるものか。

 

 まず、イライラするはずである。

 

 さて、彼女に残されている最終領域は。

 

それは、「陳述」「語り」である。

 

 おそらく、すでに、彼女は、ママ友に

その目撃の一部始終を語ることだろう。

それは、数名のひとに限られる。

 

 なぜなら、そんなことチクってしまえば、

じぶんの民度の低さも露呈するからである。

 

 そんなお下劣な話、わたしはしたくないけれど、

でもね、って少数の友だちに話すはずだ。

 

 しかし、ダムの亀裂とおんなじように、

こういうスキャンダラスな事情は、

「悪事千里を走る」、電光石火、

ものすごい速度で、広まってゆく。

 

 当事者の子どもが、もう成人して、

すっかり世の中のことを知り尽くしているなら、

まだましなのだが、もし、当事者の子どもが

幼かったなら、幼稚園とか小学生だったら、

すこぶるまずいことになる。

 

 つまり、仲のよくない母親がいる、

あるいは、敵がいて、

そのひとの耳にこのフライデーな話が伝わったとき、

その母親は、当事者のひとを、

ここぞとばかり、

崖から突き落とそうとするはずだからだ。

 

 それも、もっとも、ダメージのあるやり方で、

酸が侵食するようなしかたで、その人を

窮地に追いやろうと算段するのである。

 

 悪意千里を走る。

 

 では、もっとも、大きいダメージとは何か。

それは、旦那にいうことでも、

ツィッターにあげることでもない。

じぶんの子どもにこっそり、

この話をするのである。

 

 

 

 と、子どもの口は塞ぐことはできない。

 

 学校の教室中にあっというまに広がり、

当事者の子どもにも、その話が耳にはいることになる。

 

 それが、いじめの対象になるかはわからない。

が、そういう未来を、いやなやつは、すぐおもいつくものだ。

 

 聞いたその母の子どもは、悲しくなって、ひょっとすると、

父親にこっそり言うかも知れない。

 

 

と、ここまでは、ハイデッガー先生の言説を学んで、

それから先は、未熟なわたしの想像であるが、

この想像が、そう間違ってはいないような気もするのである。

 

 

・人の女房と枯れ木の枝はのぼりつめたら命懸け

 

 

 なんて都々逸もあるが、

恋愛に夢中なときは、舞い上がっていて、

どんなひともこんな想像をするわけがない。

 

しかし、こういう事情に、心当たりがあり、

わたしの負のシュミレーションを自覚したら、

その人はどうなるか。

 

 

 毎夜、震えて眠るのである。