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金子恵美

 自民党の金子恵美というひとが、

公用車をつかって子どもを仕事場の

議員会館内にある保育所へは

連れてゆかないと宣言した。

 

 

 そうなのかな。

 

 

 いいんじゃないかなっておもうけれど。

 

キルケゴールは、

革命の時代は情熱的であったのに、

現代は、情熱のない時代である、と説く。

 

 現代社会は味気ない、個性のない集まりだという。

 

 個人というものは意味がなく、意味があるのは

抽象的社会だけである。そのなかでの個人とは、

数合わせでしかないという。

 

 このような個性のない個人をキルケゴールは

「水平化」と呼んだ。

 

 

 金子議員が、公用車で子どもをつれて

議員会館にゆくのをずいぶん前から、

ジャーナルが問題視していた。

 

 公私混同であると。

 

 はたしてそうなのか。

 

 元、月潟村長の金子由征を父としてもち、

自民党二階派の衆議院議員、総務政務官、

としてご活躍だとおもう。

 

 

 それで、公用車にクレームがつくってのは、

水平化されたジャーナルからの

つまらない言いぐさなのではないかと、

わたしはおもってしまうのである。

 

 

 それって、つまりは、ルサンチマンからの

言い方のようにおもえてならない。

 

 

 ニーチェは、

エリートへの怨恨、

つまり「なんであんたは特別なんだよ」

という感情をルサンチマンと呼んだのだが、

それとおんなじ図式が

この金子議員に妥当するようにおもえてならない。

 

ちなみに、ニーチェは、キリスト教の説く

利他主義は、ルサンチマンをもつ弱者が、

強者をひきずりおろすための主義ではないか、

そう主張して、キリスト教を批判したのだ。

 

 弱者の地平にみなが沈んでいったら、

世の中、昏くなるばかりではないか。

 

 

 金子さんという、早稲田大学のエリート、かつ、

議員、政務官である彼女にたいする、

ルサンチマンが、このようなクレームになったのではないかと、

わたしは、おもう。

 

 もし、それが正しければ、

メディアは地に堕ちたというしかなない。

 

 

 なぜなら、メディアが水平化され、

ルサンチマンからの分節をはじめたら、

日本という国家は、みな、もっともみじめな地平から

ものを見てゆくということになるじゃないか。

 ニーチェのいう世界の具現化である。

 

 

 それって、マッチ売りの少女の目線と

ほぼ変わりないってことなんだな。

 

 

だから、金子さんの事情にも、

すこし、おおめに見たらどうだろう。

 

 

そんな、枝葉末節のことに目くじらをたてず、

鷹揚にいくことが、メディアの行き方だとおもうが、

ちがうかな。

 

 

 と、言いつつ、稲田防衛大臣の記者会見は、

なんとも言い難い。ひどい。

 

 

 撤回すればいいって問題ではない。

 

 意図はなかったというが、

意図がなければ

法律に抵触しないのだろうか。

 

 覆水盆に返らず、政治の世界では、

いちど宣言したことは、撤回できないのが鉄則なんだよ。

 

 

 それって将棋の待ったをなんどもする爺いさんと

おんなじことだって。

 

 意図なくこの手を指してしまったので、

撤回させてください。

 

 これを「待った」と呼ぶ。

 

 

 撤回して謝罪すれば、なんでも通る、

ということになれば、法曹界はめちゃくちゃになりますよ。

 

と、話がずれてしまったので、

金子さんの話にもどすけれども、

佐々木俊尚さんが『当事者の時代』で、

「いつから当事者でもないくせに

弱者面して憑依して

でたらめをしゃべるようになったのか」

と語っているが、

これこそ、

水平化のルサンチマンを分節した語りである。

 

 みな、生活レベルが劣化して、感情もそれに

ともない劣化して、ちょっと庭のきれいな家を

うらやみ、ねたみ、そして文句をつける。

 

いわゆる、クレージークレーマー化が

起動しはじめたのだ。

 

クレージークレーマーたちは、

それが、はしたなく、みっともないことではなく、

むしろ、有能感に満ちた行為と認識しているのだろう。

 

どうだ、言ってやったぞ、気持ちいい、って

感じである。

 

いまの世の中は、クレームを言ったほうが

勝ち、という風潮である。

 

どこの世界も、言われたほうが、

「なにをもうすか、わたしは・・・」と

立ち向かうことをせず、

「は、さようで、すみません」と

頭をさげてしまうことが多いから、

つけあがるやつらが増えるのだ。

 

これも、感情劣化とモラルハザードと

共同体感覚の低下が

生み出した世の中なのだろう。

 

ルサンチマンからの叫び声は、いったい、

どういうところから生まれるのか。

 

おそらく、ねたみ、嫉妬である。

 

じぶんにない地位やしあわせや権威に妬む。

 

漱石が晩年まで描き続けたのは、

このジェラシーとエゴイズムであったことを

おもえば、にんげんの醜さはエンエンつづいている、

ということなのだろう。

 

じっさい、六波羅蜜経には「心の師とはなるとも心を師とせざれ」

とあり、「心」を「師」とすると、妬みや欲望で、

なにをしでかすかわからない、ということを説いている。

初期大乗仏教のころから、

こんなことが言われていたのだな。

 

 

そういえば、キルケゴールも、

水平化された庶民をうごかす原動力は、

「嫉妬」だと、言っていた。

 

 

公用車つかいなよ。