きょう、税理士先生のところに行ってくるよ。
わたしがそういうと「じゃ」と妻がいう。
この「じゃ」とは、崎陽軒の弁当を買ってこい
という合図である。
「でも、いまおれ金ないからな」
「いいじゃなぃ、そのくらい。あのお弁当
いちばんおいしいよ。たけのこも、おいしいし、
なにしろご飯がひかっているから」
税理士の先生のオフィスは保土ヶ谷にある。
横浜から、横須賀線でひと駅。
そこから徒歩15分である。
わたしが税理士の先生のところに行くときに、
大門亭のイワイさんに、麺を届けることにしているのだ。
大門亭というラーメン屋は、
星川という、相鉄線というほとんど死にかけている路線の、
ほとんど駅前なのに、ほとんど死にかけている店である。
もう40年もつづく老舗で、かつ、
なにを食べてもまずい。
だけれども、30年来の付き合いの店で、
わたしを「せんせい」と呼んでくれる稀有な方でもある。
麺は、ミノリフーズから取っていた大門亭だが、
あの、食品偽造の権化のようなミノリフーズは倒産。
で、うちの仕入れている製麺所を紹介したら、
「こんなにうまい麺はない」と絶賛。
わざわざ東京から宅急便で取り寄せているのだ。
だが、わたしが税理士の先生のところに行くときに、
わたしが、車のトランクに乗せてくれば、
郵送料はタダということで、
たまに、わたしが佐川急便になるのである。
で、きょうが、その日だった。
店を2時30分までし終えて、
家にもどり、車をだそうとしたが、机にあるはずの
免許証がない。
どこをどう探してもない。
こまった。
でも、店には150グラム、120食の麺がどーんと置かれている。
総量18kg。
段ポールの箱はさながら熊本城の石垣のひとつくらいの大きさである。
今日運ばないと、麺は劣化するはず。
でも、車がない。
そこで、わたしはこの段ボールを
電車で運ぼうとおもったのだ。
宅急便なら一日かかるし、金もかかる。
それに、この麺をまっているイワイさんがいる。
もともとも、イワの付く名前は妬み、嫉妬の象徴である。
お岩さん。磐井の姫。
磐井の姫は木花開耶姫(このはなさくやひめ)という富士山に
祀らている姫をエンエン恨んでいるという。
倉庫から古いキャスターをだして、
しかたない、わたしはTシャツにバスケットパンツで、
がらがらと18キロを引きずりながら、
駅にむかい、大岡山、自由が丘、横浜、星川と、
東急線、相鉄線と二度、乗り換えながら、
これを運んだのである。
乗客のつめたい視線をなんどもあび、
ホームへ降りるたび、この箱を抱え、
汗がしたたりおちるのを首に巻いている
ジャイアンツカラーのタオルでぬぐいながら、
星川に着いた。
が、星川の駅という、瀕死の駅には、
最後の階段にエスカレータがない。
しかたない、わたしは18キロをまた抱え、
階段を降りはじめる。
体力の限界のように感じた。
と、店からイワイさんが出てきた。
「あ、せんせい、どしたの」
「あ、お父さん、どしたのじゃないよ。
電車で来たのよ」
「なんでよ、車は」
「免許証がなくってさ、はい、品物」
「あ~あ、いいのにさ、そんなこと、でも、
階段降りてくるとき、太っとい足でよ、だれかとおもったよ。
どこの百姓が降りてきたかとおもったよ」
「なに言ってんのよ」
イワイさんがつめたいお茶を出してくれた。
「なんか食べてく?」
「いや、これから保土ヶ谷行かないと」
「あれま、じゃ、おれ、送ってやるよぉ」
大門亭の店主は、店を閉めて、わたしを
20年前の軽自動車で保土ヶ谷の駅まで送ってくれ、
わたしは、その足で税理士の先生の事務所にむかう。
そこで書類をわたし、
横須賀線から目黒線で帰るのだが、
けっきょく、この日は、大井町線、東横線、相鉄線、
横須賀線、目黒線と、保土ヶ谷を中心に
ぐるりと、神奈川めぐりをしたことになる。
百姓とまで言われながら。
大岡山にもどると夕方6時であった。
きょうは、このあと、バドミントンを二つ離れた街で
練習会があるので、行かなくてはならない。
家に帰ると着替えて、
こんどは自転車で20分、会場にむかう。
とにもかくにも、さんざんな一日であった。
さんざんな一日なのだが、ひとつだけ、
得をしたことがある。
それは、車でないと、できないことだった。
妻に頼まれた弁当を買わずにすんだのである。