ものを考えるのにはおおきく二つに分けられます。
「だから」のつく考量と、純粋な考量とです。
「中間試験だから」暗記する、というのが
「だから」の勉強です。
「え、おもしろい」ってまなぶのが純粋な勉強です。
この「だから」方式を「仮言命法」いい、
純粋な快楽のもとに学ぶ方式を「定言命法」といいます。
カントは、世の中を知るには
「定言命法」でなければと説きます。
だって、仮言命法的な暗記は、
テストの翌日にはすっかり忘れていたりしますよね。
また、カントは、世界には矛盾することも多々あり、
その両方に妥当性がることを認めます。
それを二律背反、いわゆる「アンチノミー」の
概念を確立するのです。世界は有限である、
という説も、うん、そうだ、
と言いながら、世界は無限である、
うん、そうかも、これがアンチノミーです。
そうして、ドイツ観念論の二大巨頭の
もうひとりとして、フリードヒ・ヘーゲルがいます。
十九世紀の哲学者です
。ヘーゲルのみごとなところは「弁証法」の確立です。
弁証法とは、たがいに対立する観念をむすびつけ、
その対立する事象よりより高度な次元で解決する方法論です。
父が山に登ろうといいます(定立)。
母は、海に行きたいといいます(反定立)。
これじゃ、どこにも行けない。うーん、
じゃ、熱海に行こうか、山もあるしすぐそばに海もある。
こうやって、ふたつの意見の、
すこし上位の考量にすることをアウフヘーベン(「止揚」)とよびます。
このアウフヘーベンの図式が弁証法です。
ヘーゲルは、カントの考量を認めつつも、
きみはたしかにヒトの道徳律、理性について語ったけれど、
社会というおおきな場所をみていないのではないかい、
と説くのです。そこで、ヘーゲルは、
理性的な個人、つまり家庭にいる個人と、
社会という広く大きな場を、定立、反定立とさだめ、
アウフヘーベンさせます。家庭にいるやすらぐ個人と、
仕事にいそしむ闘う個人のいる社会とは
矛盾するというのです。この対立関係のうえに
成り立つのが「国家」だとかんがえたのです。
個人と社会、これのドミナントな
上位に崇高な国家があるとしたのです。
この崇高なものを、ヘーゲルは「人倫」と呼びました。
カントやヘーゲルを輩出した欧州は、
とりあえず近代思想のいしずえを
築いたとして一段落をむかえます。