そもそも、戦争であれ民族浄化であれ、
「だれ」がそれを起こしたかを問うことは、
論理的にみえて、じつは実践的にはほとんど無効です。
というのは「わたしがそれを起こした」とおもっている人間が、
一人もそこにはいないからです。
全員が「自分は潔白であり、『被害者』」であると信じ、
そう言明する人々のあいだではじめて破壊的な
「暴力」は発生します。
もっとも危険な「暴力」の培地は、
相手に対する悪意や敵意ではなく、
自己の「無垢」性に対する信憑なのです。
きっとプーチンさんもそうおもっていることでしょう。
「誰か」が戦争をはじめたのだから
その「誰か」が戦争を終わらせるべきだ。
問題は、「誰か」を特定することです。
だれしもが、一方に戦争と「ジェノサイド」(大量虐殺)を
おこしている「邪悪な『主体』」がおり、
他方に戦争と「ジェノサイド」を阻止するために駆けつける
「無垢」で知的な「正義の『主体』」がいるとおもっています。
ようするに、すべては「主体」の意思と
決断の次元で語られます。
とてもわかりやすい、
が、このあまりにわかりやすい図式の致命的な欠点は、
これらの「主体」たちは、
ぜったいにおのれが「邪悪な『主体』である」
可能性を吟味しないことです。
戦争について論じようとするとき、
いかなる人間も、それと気づかぬうちに
「戦争『機械』」たる国民国家の
構成要素に取り組まれているという事情があります。
とくに「倫理性」や「正義感」が
高まれば高まるほど、
その情動は「憂国の至情」」に似たものとなり、
そして「至情」は「敵意と憎悪のエネルギー」に転化し、
備蓄され、それは、そのまま戦争「機械」を
前に押し進める原動力となるのです。
「国民国家という『戦争機械』」は、
まさに、そのように「構造」化されてゆきます。
自分は、どこの国民国家にも精神的に帰属していない、
という中立性を不当前提して語りだすものが、
もっとも「国民国家」に「収奪されていること」についての
自覚を欠いているというパラドクスが
前景化しているといってもいいでしょう。
野球というスポーツは、
責めたり守ったり、そして得点というきわめて
明白な勝ち負けがあり、アメリカ的であります。
日大が得意なアメリカン・フットボールも
できるだけ味方に敵陣地に走らせ、
そこにボールを投げ入れ得点するという
攻撃的スポーツです。バスケットもそうですね。
しかし、サッカーやラグビーというスポーツは、
じぶんより前に球を出すことを制約します。
オフサイドなどです。これは、いかに点数を抑えるか、
という観点からうまれた球技です。
さすがに紳士の国イギリスの発想です。
むかしは、サッカーは一点はいるまでの試合だったそうで、
一点とるまでに何日もかかっていたという話があります。
いかに点を取らないか、というイギリスと、
いかに敵を粉砕して点をもぎとるか、
というところにイギリスと合衆国の国民性が
あらわれているといってもいいでしょう。
そんなアメリカですから、
欧州からさんざん軽蔑されているのですね。