日本社会には「人の目」を人格に
内面化する「恥の文化」という伝統的な
文化がある、と言ったのは、
上田紀行(『生きる意味』より)である。
そんなことしてはいけません、
と叱るのではなく、
ほら、よそのひとに怒られますよ、
なんて子どもを叱ったりする。
これは、日本の農耕性とふかく
かかわる問題であり、
「みんなといっしょ」というDNAが
作動しているからだとおもう。
むかし、わたしが勤めていた高校でも、
「そんなことすると、言われちゃうよ」
といううフレーズが
ステレオタイプで言われていた。
あの学校は、バカな教員がおおいから、
きっといまでも、そういう言い方が
横行しているに違いない。
「そんなことしてると、言われちゃうよ」
という、不特定多数にみずからの主張を預け、
みずからの人格をひっこめてしまう、
とても陰湿で卑怯な言い方だとおもうのだが、
そういう言い方は、ひとを咎めるという
自責の念からは、逃避できることになるのだろう。
こういう言い方が当たり前に言われているのも
きみを見ている「人の目」が自我のなかに
内面化しているからの派生だろうとおもわれる。
ルーズ・ベネディクトの『菊と刀』(1946)は、
欧米との比較論として、
日本は「恥の文化」、欧米は「罪の文化」に対比した。
「罪の文化」とは、絶対的な悪を認識することで、
「恥の文化」とは、他人の目を気にしながら、
それを共同体のなかで恥ずかしいと感ずる文化だという。
さいきん、この「恥の文化」もモラルハザードを
起こしはじめて、すこし緩んできている感もあるけれど。
しかし、わたしは、この「恥の文化」がいけないと
もうしあげるつもりは毛頭ない。
日本人なんだから、いたしかたありませんね、と
そう、言いたいのである。
ただ、この農耕性から発現した「恥の文化」は、
さまざまな傷痕を残さざるを得ないということを、
自覚しておきたい。
横断歩道、みんなで渡れば怖くない。
もっとも端的に、日本人気質を語ったものであるが、
これが箴言になっているとはおもえない。
ここから規範性を読み取ることはできないからだ。
とにかく、
「みんなといっしょ」という、
人の目を人格に内面化させた日本人は、
そういうふうに生きている。
出る杭は打たれる。
これが日本人である。
あんまり目立ちすぎると、孤立してしまい、
集団からはじきとばされてしまう。
今村仁司の『近代性の構造』にある
第三項排除なども、きっと根っこは
このへんにあるのじゃないか。
もっと、卑近な話をすれば、
大学生たちの、就職活動。
おんなじようなリクルートスーツに、
おんなじようなカバン、おんなじような靴、
そして髪型。
そして、企業は、「個性」をのぞむ。
この矛盾した社会はどうだろう。
大学入試の、自己推薦。
「目立つな」と社会や学校から教え込まれてきた、
学生が、自己推薦できるわけないだろう。
つまり、われわれは、透明な人物になりなさい、
だって他人が見ているからね、って教わってきたのだ。
なのに、自分らしくとか、個性的にとか、
いつから、そういうことが言われるようになってきたのだろう。
すみません、それって無理ですって
だれか言わないのだろうか。
ようするに、われわれは透明化されてきたのだ。
そして、あんたに代わるひとはいますよって、
そういう社会になってきたのである。
つまり、代替可能なにんげんに
わたしたちはなりつつある。
ほんとうは、余人を以て替えがたい人物を
こさえるような教育を施してもらいたのだが。
古代中国の孟嘗君は、食客3千人抱えていたという。
食客というのは、ふだんはなんにもしないけれども、
ただ一芸をもっているひとたちである。
たとえば、とても早く走れるとか、
鶏の鳴き声がうまいとか、計算がずばぬけてすぐれているとか、
ふだんは、なんにもしないで、
ただ、孟嘗君に養われているのだが、
あるとき、孟嘗君一族が追われて函谷関までゆき、
函谷関は、鶏の声でその門をひらくことになっていたが、
まだ、早朝なので門は開かず、
追っ手に追いつかれてしまう。
そのとき、例の鶏の鳴き声の名人に
一声、鳴かさせ、一命をとりとめるという逸話がある。
つまり、すべてオールマイティに
事をすませることがすべてではない。
じぶんには、なんの取柄もないが、
物まねだけはできる、とか、
料理だけは人に負けないとか、
余人を以て替えがたい人材が、日本にもほしいと、
わたしはそうおもう。
なんで受験は、私立で三科目、
国立で五科目以上なのだろう。
いいじゃないか、たったひとつの教科だけ、
特化してできるやつがいても。
受験も一教科、すきなもので入れる、
食客だけを集めた学校なんて、素敵じゃないか。
会社に入っても、
なるべく、人の目を気にしながら、
できるだけ目立たないようにふるまい、
じぶんを透明化して、それで、安泰、
一生、ここで働けるとおもったら、
けっきょくそれは交換可能な人物となっていて、
あげくはリストラされたりするわけである。