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理性のうらがわ

 フロイトというひとが

「無意識」を発見していらい、

ひとの心の大部分は、その無意識が作動している、

ということになって、

じゃ、

いままでの学者の言説はどうなるのか、

ということになってしまった。

 

 だよね。ヘーゲルにしろ、

カントにしろ、デカルト、ベーコン、

みんな意識下の言説であって、

無意識の領域にかんして言及していなかったのだから、

普遍性に欠けるといわれてもしかたない。

 

 日本の国だけを例にあげ、

地球を覆う「七つの海」のことには触れずに、

「全世界の環境は・・」なんて

口角泡を飛ばし弁じても、説得力がないのと

類比的である。

 

 ただ、フロイトの「無意識」には

エビデンスが不足しているので、

たしかに有意味ではあっても、

確実かどうかはわからないといううらみは

残るのである。

 

 

 

 しかし、われわれは

どうもじぶんにつごうの悪いことは

その無意識の部屋に閉じ込めているような

気がしてならないのだが。

 

 ちなみに、これをフロイトは「抑圧」とよんだ。

 

 

 フッサールというオーストリア人は、

確かなものは自明なものによって

支えられていると論じたのだが、

たとえば、サイコロの「一」は

背後に「六」が存在するから、

われわれは、安心して「一」を信じている。

 

 見えている対象が確実に「ある」ということは、

その背後に見えない確実な「なにか」が

なければならない。

 

 こういう考量の領域は「現象学」であるが、

われわれの日常はこの「現象学」によって

意味づけられているといってもよい。

 

 じゃ、にんげんはなにによって

裏付けられているのかといえば、

わたしは、それが遺伝子であるとおもっている。

 

 表象するわれわれは、

そのうちにある遺伝子が支えている。

あるいは、本能といってもいい。

 

 

 

 言い換えれば、サピエンスとしての

五十万年の歴史が、ひとを支えている

ということである。

 それが、遺伝子というものになって、

あるいは、本能という生得的なものとなって、

わたしたちに組み込まれてきた、

ようするに、かそけき鎖のようなものである。

 

生きているじぶん、これが理性的な領野。

生かされているじぶん、これが本能・遺伝子的な領野。

こういうふたつのじぶんがじぶんにあるということだ。

 

 

 

 たとえ、どんなに学問がすすんでも

その理性的な下支えに本能的(遺伝子的)な領域が

存在している。

 

 しかし、そのにんげんを支える本能が

近代文明によって棄損しはじめている。

 

 

 文明とは逆説的である。

にんげんを快適に、

すこしでも便利にしてくれる利器、

たとえば、

すぐに火がつく、すぐに水がでる。

夏は涼しく、冬はあたたかい。

交通、情報、通信の手段でひととのつながりも

スムースだ。

 オーグメンテッドリアリティの時代。

 なにをとっても、過ごしやすい環境である。

が、その反面、わたしたちは、

五十万年前から、受け継がれてきた

本能というものを欠落させようとしている。

 

 まず、防衛本能をうしなった。

江戸時代まで「ん。強い殺気がする」とか

時代劇でみかけられるが、

むかしはそんな防衛本能があったはずだ。

 

 それが、すっかり欠落しているから、

親父狩りとかにあうのである。

 

 そして、種族保存の本能もなくなってきた。

 

子どもなんていらない、という家庭である。

ましてや、ステディだっていらない、

という若者も多くいるらしい。

 

 本能が希釈するとどうなるか。

虫がきらい、とか、コスパにはしるとか、

未規定をおそれ、好奇心はうすれ、

いまのシステムにしがみつき、その範囲で

どれだけ得をするかをかんがえている。

 

 これは、文明が産んだ負の遺産である。

 

 便利になればなるほど反比例的に

にんげんはにんげんらしさをうしなうのである。

 

(好奇心でアフリカをでた人びとがいたから

この世界が成り立っているのではないか)

 

 

 だから、そういった、にんげんを支えてくれる

本能がなくなった状態で、ひとは、

ほんとうに理性的判断をただしくするだろうか、

というのがわたしの持論である。

 

 

 フロイトが意識の部屋だけで

論じる不確かさを懸念するのとおなじく、

本能の土台の希薄なひとの

考量がどれほど、普遍性をもつのか

疑問がのこるわけである。

 

 吉野弘の「I was born」という詩に

 

  その時 僕は<生まれる>ということが

まさしく<受身>である訳をふと諒解した。

僕は興奮して父に話しかけた。

  ---やっぱりI was bornなんだね---

(中略)

   受身形だよ。正しく言うと人間は

生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね

 

 この詩にもあるとおり、にんげんは、

「生きているのか」「生かされている」のか、

という命題にもつながる問題である。

 

 

「生まれる」というやや意志的な行為ではなく、

「生まれさせさられた」という受身的な身の上。

「生きている」という能動的な意味、

「生かされている」という受動的な意味。

 

どちらにせよ、にんげんは生きているのだから、

どっちでもおんなじかもしれないが、

この受身形や能動的な意味合いに

遺伝子とか本能とかが関連するのだ。

 

 われわれは、スピーシーズとして

生まれさせられ、そして、種族を営々と

守るような遺伝子を組み込まされて

この世に送り込まれたのである。

 

 父がいて母がいて、そして「ぼく」がいて

家庭があっても、父とも母とも「ぼく」はちがって、

五十万年かなたからの要請を受け持って

生かされているのである。

 

 それが動物というものだ。

はかりしれない太古からの要請を受けた

にんげんは、受身形にならざるをえない。

 

 ぎゃくに言えば、

わたしは生きている、というかんがえは、

本能的な領野に無自覚なのかもしれない。

 

(それが悪いことだとは申し上げてはいないが)

 

 

 じぶんの支えがなんであるか。

どんな遺伝子がじぶんにあるのか、

あるいは、どういう本能がわが体躯の奥底に

ひそんでいるのか、

それが知りたくて、女の子はママゴトをし、

男の子は隠れん坊をするのだ。

釣りをして、狩猟本能を確認する。

ちいさなお椀にご飯をよそうまねして

母性本能を見て取るわけだ。

 おいしいものを食べて、

じぶんの遺伝子がなにを欲しているか

確かめているのである。

 

 しかし、その本来的な太古からの要請を

みごとに、文明が劣化させている。

 

 いまの若いひとたちは、趣味が少ない

という事情も、じぶんを確かめようとしないから

かもしれない。

 

 男らしく、とか、女らしく、

とかいう語が公から排除されようとしているが、

男らしく、や、女らしくはあってもいいと

わたしは、おもっている。

 

 だって、男は女をもとめ、女は男をもとめるように

ちゃんと出来上がっているじゃないか。

 もちろん、例外はあるが、という話だ。

 

 本能的な礎によって支えられて

動物としてわれわれは生かされているのではないか。

 

 むしろ、男と女のちがいは、はっきりとすべきじゃないか。

女のひとは、二つの動作をいっぺんにするそうだ。

子どもを抱いて、料理をしなくてはならないときも

あるからである。男性はそれが苦手らしい。

 

 にんげんは、そんなふうに出来上がっているのだ。

 

 もちろん、人権的には男女平等でよい。

御意である。

 

 平等であるというのと、男女にはちがいがある、

ということは両立するのだ。

 

 男子バレーと女子バレー、ちゃんと区別しているじゃないか。

相撲は男子だけだし、バスケットもラグビー、サッカーも

男女平等ではないはずだ。

 

 だからこそ、「らしく」という、

遺伝子、本能の存在を証明するような

この語を破棄してよいのだろうか。

 

 本能的な領野をうしなったひとのいう

「セクハラ」は、

ほんとうに「セクハラ」なのだろうか。

 

 

 世の中は、無自覚に動きだすものだから、

じぶんに欠けているものに気づかない。

 

 じぶんの意見はただしいとおもう。

 

 ほんとうは、わたしたちは、

あるイデオロギーを常識ととらえている偏見の

時代を生きているわけで、

そこに、すっかり薄れた擦り切れた本能で、

その常識や考量を担保しているのである。

 

 だから、わたしは、もっと「らしく」

生きていいのじゃないか、とおもうのだ。

 

 

 アルノルト・ゲーレンが

「人が自由でいるときは制度に隷属している」と

語ったが、それはそれで自明なこととして、

だから、この近代社会のルールを遵守して、

制度に隷属しながらも、

そこで、遠い太古の要請に耳を傾け、

生かされてゆこうではないか、とおもうのだ。

 

フロイトが、リビドーという概念を

打ちたてたが、フロイトがたどりついたところは、

「性的」な領域だった。

 

 ユングはこれに反発したのだが、

フロイト先生の結論は、いまのわたしには

ひどく頷かされるのである。