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よそ様の短歌をじぶんなりに変えてみる

・ふたたびを君は逢はざり竜胆の咲くを待ちゐて夏をかなしむ

 

という作品を見せていただく。

 

もうすでに「君」はわたしと会うこともなく、

秋に咲くりんどうを待って、夏のひとときをかなしく過ごす、

という、わかりやすい作品である。

 

なぜ「かなしむ」のか、「君」と逢えないからである。

 

じつにシンプルだ。だが、短歌とは贈り物である。

贈り物の紐を解くのは送った相手である。

その楽しみが贈り物の本筋である。

 

ひとの感情をすぐに作品に出してしまうということは、

贈り物はすでに

蓋が開けられて中身がみえてしまっていることとおんなじ。

つまり認識が早い、ということだ。

 

読者に、その楽しみを手渡していないのである。

 

これは、読者としては欲求不満がつのる。

 

さて、歌のカタチとしてどうだろう。

 

助詞の「を」が三度ある。「逢ふ」「咲く」「待ち」「かなしむ」と

こんどは動詞が4か所だ。

 

それに、内容を限定しかねない「は」までついている。

 

これは、せわしない感じを受けるだろう。煩雑である。

 

ここを整理したらどうなるか。

 

また、どこがテーマとなっているのか。

 

「ふたたびを君は逢はざり」

 

「竜胆の咲くを待ちゐて」

 

「夏をかなしむ」

 

このどの箇所もテーマにしてもおかしくない。

が、通常、短歌は主題は下の句というのが定説。

 

なら「夏をかなしむ」なのだろう。

 

そこに「りんどう」をもってくることの

アクロバシィは、論理的な道筋としてかなり高度である。

 

「りんどう」をどうしても詠わねばならないのだろうか。

(たぶん、作者はなんらかの「思い入れ」があったのだろうが)

 

で、わたしは、その「を」の多様さを解消させ、

動詞をへらし、むしろ、この作品は「竜胆」があるから、

ややこしくなっているわけで、作者は、そんなことできない、

というに決まっているが、あえて「竜胆」をはずすことにした。

 

とにかくすっきりゆきたい。

 

そして、テーマをどっしりと下の句にもってゆきたい。

と、この作品は、わたし流ではこうなる。

 

 

 

 

 

・この花はいつ咲くのだらうもう逢へぬあなたのかおり夏のただなか

 

 

 

下の句が名詞「かおり」「なか」と二つならぶのは

ふつういましめられるのだが、

この作品ではあんまり気にならないのでは。

 

そして「を」がまったくない。動詞も「咲く」「逢へ」の二語である。

また、「逢ふ」ではなく「逢へ」にすることで、

つまり可能動詞をもちいることで

ふたりの邂逅が不可能になったことも付加された。

「は」は残ってしまったが、かんべん。

まあ、たぶん作者は、こんな歌、いやですって言うに決まっている。

 

しかし、あとは、どっちが読みやすいか、

含意がどっちがあるか、それは読者がきめることである。