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リテラシーとは

メディアリテラシーとは、

情報収集能力のことである。

が、内田樹氏は、情報収集能力のほかに

情報発信能力の意も含まれていると語る。

 

たしかに、収集するという能力があれば、

発信する才能も身に着くわけだ。

 

文章の上達もどれだけ名文に触れるかによる。

芸事だっておんなじ、どれだけ優れたものに

感化されるかである。

いわゆる、ミメーシスというやつだ。

 

しかし、資本主義にどっぷり漬かってしまっているわたしたち、

ようするに価値観が一元化してしまっている

わたしたちが、リテラシーを発揮するとすと、

けっきょく、一元化されたシステムをどれだけ

上手に受け入れるか、というところに特化されるのだ。

 

価値観の一元化は、ミッシェル・フーコーと

いうひとが説明しているが、

健常者は正しいが、病人は除外、

金持ちはよいが、貧乏人はダメ、

と、すでにモノサシが決まってしまっている。

 

フーコーは学歴社会について語ってはいないが、

まさしく、フーコーのいうところの価値観を

わたしたちは、この学歴社会であまねく共有している。

 

なんとか一校に入らねば、なんかまずいぞ。

〇〇大学くらいに入っていないとやばいじゃん。

会社じゃ、じぶんの楽しみではなく、

出世することに万進する。

 

これは、みずからの幸福論ではなく

ただの「ポジションを取り」になっているに過ぎない。

こう語るのは、上野村の哲学者、内山節である。

 

資本主義は生活を強いたと内山は論じるが、

たぶん、それは妥当していることだろう。

 

かんがえ方の方向性は、フーコーと内山と

変りはない。

 

親は子に、できるだけいい学校に、

できるだけいい会社に、

できるだけいい生活を、

と、そう願っている。

 

ほんとう、貧乏でもじぶんの楽しみのために

一生を送るほうが幸せかもしれないのだが、

わたしたちは、そういう幸福論を資本主義とともに

手渡しているのである。

 

それは、思考停止とほぼおんなじである。

 

民主党という政権は、このシステムを

変更しようと躍起になって失敗におわった。

いまじゃ、そんな党の姿もない。

 

右肩あがりの経済ではなく、

コミュニティをつくりあげ、

あたらしい価値観の日本をつくろう、

そう民主党は願ったはずだ。

 

だが、このシステムを壊してくれるな、

という根強いひとたちが、民主党の政策を拒否し、

けっきょく「取り戻す」と連呼した

滑舌の悪い党首がまた政権を奪回した

歴史をわれわれは有している。

 

つまり、わたしたちは、このシステムの中で、

どれだけ得をするか、というリテラシーだけを

育て上げていったのだ。

 

このシステムは強固であり、どんなに暴れても

壊れるものではなく、このシステムにしがみついてさえいれば、

幸福は訪れるのだと、わたしたちは

心の底で、なんとなく信じているのである。

 

だから、この資本主義の中において、

うまく適応することに専念するのだ。

 

 

なんども言うが、個人の、そのひと特有の幸福を放棄してである。

 

だから、いまの人は、趣味を持たない。

なんにもじぶんで作り上げない。

ただ、適応だけをかんがえ、その中で

もっともじぶんを快適に過ごすことに

集中するのである。

 

リテラシーは収集能力であると同時に発信能力であるとするなら、

その発信能力は、すでに封印されてしまっているのである。

 

 

発信能力とは、うけた情報をみずからの中で咀嚼し、

それを想像力とともに外部に解き放つ力である。

 

そういう幸せをわたしたちはどこかで

見失ってしまったのである。

 

では、いまの若者が

ささやかな幸福を見出すとき、

どんな言動になるか、じつに簡単である。

それがこの一言である。

 

「うん、これコスパいいじゃん」