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マヨネーズと不安

世の中では、名づけられると

それに付随された現象もみな

その名づけられたモノにカテゴライズされる。

 

1995年、はじめて新聞の見出しに「いじめ」と

いう語が掲載されてから、いじめは増加されたわけで、

それまで、いじめと認識されなかったものまでが

その範疇におさめられたという現実もある。

 

名づける、という行為は

ある現象を認識することであり、

言い換えれば、名づけることによって

対象が現象するといってもよい。

 

 

カントというひとは、それを

「対象は認識に従う」と言った。

 

そこにある「もの」は

認識してこそはじめて存在するという

ことである。

見えないものは「ない」に等しいのだ。

 

ソシュールという言語学者も

物は名づけることによって存在すると論破していた。

 

 

 

現在、さかんに言われていることに

神経症とか不安神経症とか、あるいは不安障害とか

心の病が報告されている。

 

養老 孟司さんに言わせれば、

もともとヒトは不安を内包しているものらしい

 

高度文明の時代となり、学問もすすみ、

なにかのある心の弱さなどが自覚されると

それを病として名づけなければならなくなる。

 

そうすると、精神科医はそれに名前をつける。

 

と、ヒトはそこにもたれるように

通院し、薬を調合してもらい、

みずからを病状のある一人としてカテゴライズしてしまう。

 

 

解剖学の先生に言わせれば、

それって当たり前のことですよってことになる。

 

「不安」

 

それは、だれにでもある心のチップなのだ。

 

そして、そのチップはふだんは

心の中に封印されている。

 

おそらく無意識の中にこの不安要素は

たんまり閉じ込められて心のなかに

閉じ込められていたはずなのである。

 

 

こういう精神構造をフロイトは「抑圧」と呼んだ。

 

無意識の発見者は、この「抑圧」の領野の

大きいことをコンセプシャルワークではあるが

見抜いていたのだ。

 

ところが、現代人はこの抑圧された部屋から

のこのこと出てきてしまった感情を

掬い上げて、さあ、たいへん、と叫ぶようになったのである。

 

養老先生は

「そんなに、大げさにしなさんな」と

語っているようであるが、

当の本人には大問題である。

 

抑圧から出されてしまった精神的なピースは

また、抑圧できないからである。

 

簡単に言えば、

なんとなく鬱憤がたまっていたものが

ある病名を付けられたことによって

みずからの手のひらのうえに開示されてしまったのだ。

 

本来は、無意識のなかに凝り固まった不安要素は

みずからの中で骨肉化され、厳重に

管理されていたはずなのだが、

いざ、病名がついてしまうと

それは、言語化されたということであり、

無意識が前景化されたということになったのだ。

 

不安を抱え込んでいる「健常者」が「病人」になったのである。

 

 

これは、精神疾患というより、

現代人の抱える現代病といってもよい。

 

養老先生は、それは「当然のことだよ」と

おっしゃったかもしれないが、しかし、

だからといって東大名誉教授は「だからこうすればいいんだよ」

という処方箋までを語っていないのである。

 

 

つまり、マヨネーズの中身が台所に飛び出してしまったのを

また、マヨネーズの容器にもどすのは

どうすればいいのですか、

という問いには答えてくれていないのだ。

 

 

不安症候群などは、そう簡単に治せるものではない

とおもう。もっとも効果的なのは

じぶんの心の無意識にお戻りねがうことなのではないだろうか。

 

大魔神を鎮めた高田美和の涙があれば、と願うばかりだ。

(なに言ってるかわかんねぇだろうな)

 

養老先生も、

では、こういうふうにいたしましょう、と

一言、口添えをしてもらいたいものである。