落語に「井戸の茶碗」という噺がある。
麻布茗荷谷に清兵衛さんという
正直者のくず屋さんがいたのだが、
清正公の前をとおると、
ある裏長屋から十七、八の娘さんに呼ばれる。
身なりはつぎはぎだられの着物の
娘さんであるが、どことなく品がある。
というくだりからはじまる。
「井戸の茶碗」は、この娘さんの父上、
千代田卜斎(ぼくさい)と、
若い侍の高木左久左衛門と
それから正直清兵衛さんの
正直者どおしのやりとりが、話の骨格なのだが、
わたしがもうしあげたいのは、
浪人の千代田卜斎の娘は身なりがたいしたことなくても、
見るからに品がある、というところである。
「井戸の茶碗」は江戸の小噺であるが、
いまでいうなら、それはピエール・ブルデューのいうところの
「文化資本」にほかならない。
「文化資本」とは、階級差の指標をいう。
ピエール・ブルデューはフランスの学者であるが、
フランスという国は、階級がうるさいらしい。
そもそも、エッフェル塔の半径50キロメートルにしか、
文化がなく、それ以外は農業国である。
美術館も博物館も図書館も、その半径50キロのなかにしか
存在しない。だから、フランスのどこに生まれたかで、
すでに階級差が生じてしまう。
その指標を文化資本とよぶ。
身のこなし方、しゃべり方、食事の仕方、趣味、
特技、すべてそのひとのそなわった文化の総称、
それが文化資本である。
だから、わが国でも、お見合いとなると、
だいたいは日本料理屋でおこなわれる。
箸を使った食事のしかた、
そこにそのひとの文化資本が凝縮しているからである。
相手の両親は、お見合い相手の、
手許を凝視して、いったいそのひとは、
どうい育ち方をしたのかを品定めするという
寸法である。
ぎゃくに言えば、どんな姿をしていようとも、
そのひとの「文化資本」は変更されず、
ほとんど5歳までに受けたそれはそのひとの
人格を決定するのである。
たしかに、身なりも大切であるが、
もっとも大切なのは、中身なのである。
銀座、泰明小学校がアルマーニを制服に
指定したのは、有名な話だ。
泰明小学校の和田利次校長は
「銀座の中で育てられてきた学校。
銀座に誇りを持ち、
きずなを感じられる標準服にしたかった」
と語っている。
素晴らしい。
馬鹿がつくほど素晴らしい。
学校教育の根本は、共同体を助ける、
というところにある。
じぶんひとりで生きてるのではない。
困ったひとは周りで助け、援助するという
教えこそが学校教育の柱のはずである。
共同体とグループとの差は、
その「援助」という部分にある。
グループとは、たとえばサークルとか、
たとえば、なんとかの会とか、なんとか講である。
なんとか講、
具体的には、冨士講、伊勢講,金比羅講,
秋葉講,高野講,善光寺講
などである。
グループとは、つまり目的を同じうするひとの
集まりで、では、あるひとが貧窮しているからといって、
そのひとを助けるということはしない。
それがグルーブの本質である。
が、共同体は、
たとえば、田植えの時期にあるひとが
疲れて倒れてしまった。それなら、その田んぼを
みんなで田植えしてあげよう、とか、
米をみなから集めて、寄付しようとか、
相互援助のしくみができあがっているものをいう。
都市型の共同体は、このような
仕事の援助はできないので、ほんどが金銭という
ことになるのだが、援助というところでは
かわりない。
共同体とは、地域の共同体、仕事上の共同体、
など、さまざまな共同体が、かなさなり、からみあうように
作られていて、それを多層的共同体とよぶ。
この多層的共同体を守ろうとするのが
教育の大きな柱なのである。
けっして、他との差異ではない。
そもそも、義務教育は
区別も差別もない現場である。
門地、身分、親の仕事などでの偏見のない、
サンクチュアリである。
もちろん、競争社会がそこに具現されても、
それは、当たり前で、
むしろ、社会のミニチュアとして
さまざまな遊戯や授業のなかに、
そういう図式を教え込むことは有効だとおもう。
が、わたしたちは、特別なのです。
という差別、格差意識を年端のゆかない6歳に
刷り込むことがどれほどの教育的効果をあげるのだろう。
それは、かえって個人主義的な発想を
6歳の子どもに強いることにほかならないのではないだろうか。
個人主義は、学校教育のアンチテーゼだったのではないか。
じぶんだけがよけばそれでよい、
こんな考量は、道徳の時間にいち早く否定された
ことだったはずである。
いま、泰明小学校は、いままで培ってきた
伝統的な教育観をうちやぶり、その反措定としての道を
歩もうとしている。
教育評論家の尾木直樹・法政大特任教授は
「公立小なのに、標準服があまりに高額。
スクールアイデンティティーは制服でなく、
知的、文化的な活動で確立するもの。
銀座(という土地柄)に対する奇妙なうぬぼれに思える」と話したと
大迫麻記子、水脇友輔記者らが報告されているが、
御意である。
ようするに、肝要なのは、見た目ではない。
その子に備わる知性なのだ。
それがわかっていない和田次利校長は、
ひとつ古典落語でもきいて、勉強しなおすほうがよい。
そこには、ささやかな生活でも正直で
貧乏でも上質な心をもった生き方が息づいているのである。
和田さんは、やはり、素晴らしい馬鹿である。