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田舎にあるもの

何年かぶりに徳島に行った。
義母の一周忌である。

 わたしが、市内から一時間くらい吉野川を
のぼったところの妻の実家にはじめて行ったのは、
いまから四十年前のことだ。

 おだやかな一級河川、吉野三郎の流れる
そのむこうに、たおかやに横たわる山並み。
くれなずむ河原に春のかぜが鳥の声をはこんでくる。
わたしは、日本昔話にでてくるような
このロケーションに
日本の原風景を見たようだった。

 都会とちがって、地方には、「すきま」がある。
「すきま」とは、おおらかな自然と、
ある神のような「なにか」が、
その「すきま」を埋めている。

 べつにその「すきま」に手向けするわけでもないが、
にんげんの領域ではない「なにか」、
はかりしれない「なにか」が存在するのであり、
その「なにか」の前ではにんげんは無力である。

 それをアニミズムといってもいいだろうし、
「山の神」「川の神」「土の神」と呼んでもいいだろう。
あるいは「祈り」といってもいい。


 あれから40年。徳島は変わっていなかった。
自然は、泰然としてにんげんの営みとは無縁に
存在しつづけているのである。


 しかし、日本人は、無縁なはずの自然とともに
生きている民族である。


 東日本大震災で多大に被害を受けた地元のひとも、
数日で心強い発信をしている人びとがいたという。

 それは、漁民の方がただそうだ。

「海は生きている」

 それが、彼らからのメッセージである。
にんげんの生活領域はすっかり破壊されてしまったが、
海はそのまま存在し続けている。
いや、津波によってむしろ海は活性化される、
という言い伝えもあるらしい。それは、伝承であり、
死者からの教えでもある。

 これが日本人の生き方なのだ。
われわれは、自然と、それに死者とともに生きる国民である。
「死者」の残した考えや生き方、教えも
こころに刻みながら、かつ、自然にたよりながら生きている。
 あるいは、過去の考えを修正しながら、
現代にそれを応用しているという面もある。
 むつかしくいうと、過去も変えることが可能なのだ。

 このへんの事情は欧米人には理解しづらいようである。
それどころか、宗教がない民族、
つまりわれわれは、低俗であり、野蛮であると、
そう、肉食獣はおもっているらしい。

 前にももうしあげたが、宗教とか信仰という言葉は、
明治時代の産物であって、日本古来から引き継がれた語ではない。
明治期に、仏典のなかから死語のような語彙を拾い出し、
使用し始めたのが、宗教や信仰である。

 だから、日本には、宗教がない。
仏教や神道はあったのだが、あれを宗教とか、信仰とか、
そういう発想で、古代人は理解していなかった。

 だが、震災にあわれた人びとには、
宗教などとはほどとおい深遠なるおもいがあったわけだ。

「海は生きている」

 これである。

 それは自然にたいする信仰であるが、信仰という語彙が
適切でなければ、もっとも近似的な言葉は「祈り」である。

 自然にたいする畏敬の念と祈り、それが
われわれを支えている。

 ところが、政治の世界では、
そのような畏敬の念や祈りというものとは
かけ離れた現実がある。

 小泉元首相の記者会見で、
なにゆえ原発を反対しているのか、
という記者の質問に、
「総理時代は専門家を信じていたが、3.11以降、
よく調べたら、それらはすべて嘘であったから、
わたしは、いま、原発反対運動に参加している」と
そう語っていた。

 専門家に、原発は安全でコストは安い、CO2は出さない、
永遠のクリーンエネルギーである、そう言われて、
それを信じていたという。

また、なにゆえ、イラク戦争において
アメリカをいち早く支持したのか。
しかし、それはまったくのでたらめだったのに、
それに対する反省はないのか、という質問には、
「なんで検証しないのか、という声もあることは
知っています。しかし、わたしは、アメリカが
当時、苦渋の決断をした。日本が反対しても、
戦争をはじめることがわかった。
だから、わたしは、同盟国として
の重要性を重視した。重視したができることと、
できないことがある」と語る。


 原発に関していえば、当時から、
原発反対の専門家も多数いたのだが、
そのとき、小泉さんは、その多数派の意見に
耳を貸さなかっただけなのだ。

 それは、心理学的にいえば、
じぶんの都合のよいこと以外は耳にはいらない
という現象で、それを「認知的斉合化」という。
 フェスティンガーというひとのテクニカルタームである。

 小泉さんの言動はすべてここに起因する。

 また、イラク戦争にしてみれば、
真実よりも関係性が重要だということにほからない。
 アメリカとの関係性が基本にあって、
それに、すべての理論をあわせるということである。
これも、認知的斉合化のひとつである。

 アベさんが、このあいだの予算委員会で、
民主党の議員の質問「あなたは何回、沖縄に行きましたか」に、
「大切なのは、いかに沖縄をかんがえているかであって」と、
質問にたいする答えを、答えにならないカタチで
回答していたのも、認知的斉合化の具現化ではないかとおもう。


 つまり、政治家たちには、じぶんの都合だけで
動いていて、にんげんのもっとも崇高な良心とか正義というものが、
すっかり欠落、脱落してしまっているようである。

 真実よりも、にんげんの正しさよりも、
正義よりも、良心よりも、ご自身のご都合が優先されるのである。

 社会の規範が弛緩・崩壊することで
国が無規範状態、めちゃくちゃになってゆく状態を「アノミー」というが、
アベさんや小泉さんの答弁が、そのままアノミーにつながるとは
おもわないけれども、その入り口ちかくに日本がいるのではないかと、
そうおもってしまうわけである。

ちなみに「アノミー」は、フランスの
社会学者エミール・デュルケームの術語である。

 それでは、こういうモラルハザードの兆候を
軌道修正、どのようにパラダイムシフトさせるかといえば、
それは、ほとんど不可能にちかいかもしれないが、
フーコーなどに言わせれば、唯一絶対的な神が必要だという。
あるいは、橋爪大三郎氏は、精霊の登場が条件だという。
 そういうものを経由して正義、良心を取り戻すしか
方策はないのだろうが、一神教の絶対神など、日本では
期待できないし、精霊もはたしてあるのか消極的である。

 なら、わずかな望みは、地方に息づく、
自然の「すきま」、それしかないのではないだろうか。

いまだ、失われていない「神」のような自然。
その自然に身を満たして、にんげんが生得的にもっているだろう、
正義、良心を復権させるのが最善なのかもしれない。

 政治家はとくに地方に出向いて、そんな空気を
いっぱい吸って、正しく政治をおこなってもらいたいと
切に願うものである。

 だからといって、徳島に来てくれとはおもわないけれども。