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ふれあい通り

 ひとを説得させるためには、
譲歩逆説という文構造が有効である。

 うん、きみの言いたいことはよくわかる。
でもな・・・。

 という言い方である。

 

 

 この構造は、べつに近現代にはじまったわけではない。
平安や鎌倉時代の歌論にも、「よろしく侍り。ただ・・」とあり、
「まあ、よく出来てはおりますが、しかし」と言いながら
ひとさまの作品の難をそれとなく指摘していた。
 まさしく譲歩逆説である。

 

 

 古典においては「よろし」という形容詞がもっとも
やっかいである。褒めているようにみえて、最後に
ちゃんとダメだしがあるからである。

 

 

 

 これが夫婦喧嘩だとはそうはゆかない。
おおよそ、夫婦喧嘩はパラレルである。

 「おまえ、ここちゃんときれいにしておけよ。
ほんと、だらしない」

 「なによ、だから、あんたには友だちがいないのよ」

「・・」

 まったく絡み合っていない。おたがいに言いたいことを
相手にかまわず言い合っている、
いわゆる平行線をたどるわけである。
 だから、どんな紳士的なひとでも、こんなパラレルな
もの言いには、ご立腹するわけだ。

 

 

 

 

 十九世紀のおわりころに、実存主義が
世の中の趨勢だったが、そのころは、ニンゲンの主体的判断が
ものを言わせていた。つまり、じぶんの言いたいことが一番、
ということである。しかし、その主体性にひとすじの翳りが
見えてくると、この実存主義もずいぶんあやしい言説となる。

 ようするに、ヒトには偏見やあるバイアスがかかって
ものを見ているのではないか、という考量である。

 これに一役かったのが、ジャック・ラカンであるけれども、
かれは、鏡に映るじぶんをじぶんとおもっているかぎり、
そこに「狂気」がまじると論破した。

 

 鏡はじぶんと正反対が映るのにそれをじぶんと
おもっているから、その屈折こそが狂気を生むと説いたのだ。

 とくに、幼少期の鏡はそういう傾向がつよいらしく、
そんなヒトのいくら成人したからといって
その主体的判断は信用ならないよねってことになる。

 おかげで、サルトルという実存主義の哲学者などは論壇から
あっというまにずりおろされることになる。

 

 

 じぶんには、かならず偏見がまじったり、
すべてが正しかったりとはかぎらない。
つまり、答えはじぶんの答えひとつではない、
というものの見方の隆盛をみる。

 これが構造主義である。

 

(しかし、現代はすでに構造主義も終焉をむかえ、
ポスト構造主義の時代になっていると言われている)

 だから、構造主義を通り抜けてきた学者たちは、
当為の文体を放棄することになる。

 

 当為の文体とは「・・すべきだ」とか「・・しなくてはならない」
という言い方である。

 当為の文体は、むかしのフェミニズムの論説とか、
実存主義の言説の常套句であった。

 

 

 が、構造主義の台頭により、
この文体は論壇からさっさと消滅した。
だから、内田樹さんの文章に「すべきだ」は
ひとつも出てこない。内田さんくらいになれば、
「みんな・・・すべきだよ」って言っても、
それなりに支持者を得られるだろうに。ざんねんである。

 

 

 

 青山学院大学の短大の入試問題につぎのような問題があった。

 

   子供向けのテレビ番組では、
  悪者を倒す「正義のヒーロー」が登場します。
   ですが、本当は悪者は悪いやつで、
  ヒーローは正義の味方だと決めつけていいのでしょうか。

   たとえば、悪者は地球を争いのない星にするために
  征服しようとしているのだ、と考えみましょう。
  だとすると、それは、悪いことではなく、
  むしろ良い行いをしていることになります。

   それをヒーローがやっつけてしまったら、
  地球に平和は訪れません。
   このように、どちらが正義でどちらが悪かをしっかりと考えないと、
  本当の悪者を応援することになるかもしれません。 

          

【設問】右の小学生の提案にあるように、
一見どちらが「正義か悪か」明らかだが、
よく考えてみると必ずしもそうでないことが
私たちの周りにはよくあります。
そうした事柄をひとつあげて、深く考察しなさい。

 

 これは、正義の味方からみた世の中と、
そのアンチテーゼからみた世の中とはまるっきり違って見える、
という構造主義の真っ只中の設問なのだ。

 

 

 

 ようするに、アメリカからみたイラクは、
テロリストの集団に見えるだろうが、
イラクからみたアメリカは、
アメリカこそがテロリスト国家なのである。

 構造主義とは、ひとつのものの見方をせず、
どちらの側からも、その対象をみて、
それによって判断するという考量である。

 これは、とりもなおさず、
たしかに、アメリカから見ればこうだけれども、
しかし、イラクから見たら、こうですよねって
いう譲歩逆説の構造とおんなじなのである。
 


 答えはひとつではないのだ。

 

 

 

 わたしの店は、ふれあい通りの奥のほうに位置する。
たしかに、盆踊りのときなどは、いったい、
どこからこれだけのヒトが集まるのだろう、
というくらい集まるし、フェスティバルのビンゴ大会は、
うちの店のドアのところまでヒトがいて
その数たるや、押し合いへし合い、右往左往、
おびただしいかぎりである。

 

 この光景は、まるで、ふれあっているように見える。
が、しかし、それはイベントという非日常の、
それも事務局の企画した、いってみればあるシステムに
乗じた「しかけ」であって、ふだんの状況ではない。

 

 日常のこの通りのことを知悉しているのは、
この通りに店を構えているヒトたち、店舗の主人たちである。
大岡山は商売むつかしいよとよく言っている、
そのヒトたちである。

 ほとんど通行人のいない、
ひょっとするとシルクロードのほうが
多くの往来があるのじゃないかとおもうほど
閑散としているここに、はたしてどれほどのふれあいがあるのか。

 

 

 だから、わたしは、ツィッターに
「ふれあい通り、理事長がおっしゃっていたが、
さいきんは、ふれあい通りという語を
使っていないそうだ。じつに懸命な判断である。
ほとんど、
ふれあっていないからね」とつぶやいた。

 と、どなたかよく知らないけれども、
ありがたいことに、それに反応してくれた方がいた。

 「僕が通った時はみんな『大変な雪でしたね』とか
おしゃべりしながら雪かきしてにぎやかで、
『ふれあい通り』の名前にふさわしい光景だったと思う」

 と、あった。たぶん、その方の見方はただしい。

そして、それは、わたしへの反論なのだろう。

 

 ただ、そのただしさは、「僕が通った時」という、
刹那的ないっしゅんである。刹那的ないっしゅんであろうとも、
そういう光景があったのなら、その場面としては
ただしい判断である。それも雪という非日常の現実である。

 

 

 

 そういう非日常の、ほんのひとときの感想も
わたしは、否定するものではない。
 しかし、わたしが、「ふれあい通りはふれあわない」と
もうしあげているのは、この十八年のじっくり居座り、
この場を見続けた感想であって、
一瞬のただの通りすがりとは
ちがったものの見方なのである。

 

 

 

 おそらく、わたしのツィートになにか反感を感じたか、
なにかを言いたかった方には、わたしの意見もそうであるが、
僕の意見は違いますよ、という含意はそこにはまったくない
とおもわれた。

 

このひとはこういっているが、
僕が見た街はちがいますよ。

そこには見てきた年数と経験の差はあるが、
どちらも正論なのである。
ただし、このひとの考えもそうかもしれない、
が、僕の印象はこうです、という
言い方ができなかっただけである。

わたしは、それに対して抗議をするものでもないし、
腹を立てているわけでもない、
むしろ、その方の印象は尊重すべきだとおもっている。

それは、致し方ないことだからである。

 

 

 

 なぜなら、そういうじぶんだけの
考えを押し通す前時代的な考えは、
いまも世の中の主流かもしれないし、
構造主義や譲歩逆説を
学んでこなかったせいだからである。