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実在性

 住人、数十人の反対で、託児所建設を断念したのは、
千代田区だったか、たしか都心の話だったとおもうが、
わたしの街のすぐそばでも、各家の門や垣根に
託児所反対の黄色い、風呂敷の何倍もの大きさの
垂れ幕が張られている。


 理由として、ここが一方通行であることや、
道が狭くて危険であること、
などがその垂れ幕に書かれている。


 けっして、ガキがうるさくて迷惑だ、
という文言はない。あるいは、
こんな閑静な住宅街に、どこの馬の骨だかわからん
右も左もわかっていない、年端のゆかない子らが
どかどか入ってくるとは何事だ、というフレーズもない。


 
ずいぶん昔だが、ある目黒区の大きな公園の近くでは、
大型マンション建設反対に
「おれたちの空を返せ」とあった。


 その近隣にお住まいの方は、
空まで所有していたのかと、そのときおもった。

 託児所やマンションは、
日本年金機構のお役人が法外な娯楽施設を造るのとはちがい
必要あって建設されるものであり、
いま、どれだけの待機児童がいるのかは、
よく報道されていることだから、
わがお国事情はみな周知のことだろう。

 だが、それとこれとはべつなのだ。

 じぶんの住環境を犯されることだけが
問題なのである。
 もちろん、住環境の侵害はだれしも避けたいものだが、
助け合う、という気持ちも忘れてはいけない。

 この助け合いの心を失うことを
共同体感覚の欠如という。

 じゃ、あんたんちの隣にホームレス専用の
集合住宅を造りたいのですが、と言われたら、
きっとわたしは、黄色い、風呂敷の何倍もの大きさの
垂れ幕を張っているにちがいないが。

 いざ、じぶんに降りかかる、一種の災難は
なるべく避けたいものである。
 

 駅のホームで電車を待つ。
いま、駅には黄線の向こうにホームドアが
設置されていて、飛び込むことがままならなくなっており、
借金苦のひとなど、年末、死に場所が年々減ってきているが、
あのドアの前に並んでいるひとで、
たまに、二メートルくらい離れて、
ぽつんと立っているひとがいる。

 携帯をじっといじりながら、うつむいた姿勢で立っている。
たぶん、並んでいるのだろう。いや、ただ、偶然そこに立ちながら、
携帯を操作しているのかもしれない。

 しかし、もし、並んでいるのなら、
わたしどもは、その後ろに並ばなくてならない。

 日本人は、並ぶのが得意、お家芸である。
お隣、中国ではそうはゆかない。
並ぶのが苦手なために、古代には殿中侍御史という
役人がいて、列に並ばせるのを仕事にしていたほどだから、
いまさら、列を作れというのも至難なのだろうが、
日本人は、そこは、ことお行儀がよい。

 だから、ホームドアの前、約二メートルは、
無人なのだが、その後ろ二メートルからぞろぞろ
ひとが並んでいる光景を見ることは、
一度や二度ではない。

 これは、ドアの前に立つという身体運用が
はしたない行為だ、という自戒の念が働いたのか、
そういう行為はみっともないとおもったのか、
あるいは、じぶんの後ろにひとが並んで、
そのひとたちは、すくなからず迷惑しているという
ささやかな想像力が皆無だったのか、に由来する。

 これが、もし、三番目の、
他者の迷惑を考慮しないという
理由がもっともであったら、それも
共同体感覚の欠如ということになる。

 薬屋でも、ほんとうに並んでいるのか、
痴呆のようにたたずんでいるのか、
さっぱりわからないひとがいて、
「並んでいらっしゃるんですか」と、
最高敬語でうかがうと、
「はい」と、上から目線の教育ママのような視線で
応えられたこともあった。

 並ぶときは、ちゃんと並べよ。

 「実在性」という概念は、能動的なはたらきかけを
とおして対象とかかわりあうときにあたえられる。

つまり、「実在性」、「そのものがあるという感覚」は、
そのものに、「関与」しているときか、
あるいは、そのものが「抵抗」となっているときか、
あるいは、そのものによって「支持」されているときに
認知される。

 お向かいに建つ託児所は、ある意味「関与」していることだし、
「抵抗」となって、その人に「実在性」を与えることだろう。
 そのくせ、となりの家の壁が何色で、どんな窓のカタチをしているのか、
興味がなければ、まったく知りえない。「関与」していなければ、
「実在性」がないのである。


 ホームに離れて立つひとは、やはり「抵抗」、邪魔なのだ。
だから、そのひとの身なりや携帯の種類まで気になるが、
わたしの後ろや横にいるひとには、なんの「実在性」もない。

 ちなみに、行動にたいして阻むもの、邪魔なものが
「実在者」だという考量は、ドイツの哲学者
ディルタイや、シェーラーなどによってすすめられてきたが、
ディルタイは、「支持」のもっとも身近な存在は「母」だとし、
「母は子どもにとって最初の実在だ」と言っている。

 このへんの事情は、島崎俊樹氏の『心で見る世界』に
くわしい。

 この「実在性」のうち、負の「実在性」が
「抵抗」であるが、その負の「実在性」を
おこさせている主要矛盾こそ、共同体感覚の欠如が
関係しているということになる。
 
 共同体感覚の欠如とは、すなわち、
モラルハザードの極北だろうとわたしはおもうが、
そこで、すこぶるやっかいなことは、
そのモラルハザードにたいする自覚が、
当事者にはゼロというところなのである。

 じぶんには、なんの悪いことはない、
とおもいつつ、なにかに反対し、適当な距離に立ち、
あるときは、クレージークレーマーになり、
あるときは、無自覚に携帯を見ているのだ。

 二子玉川から電車に乗ると、
向かいの席にすまなそうに女性が
ひとつ空いている席に座り込んできた。
となりのひとがちょっと横にずれれば、
楽に座れるのに。

 わたしは、なにげなくそれを見ているが、
じぶんでじぶんは見られないけれども、
きっと、眉間にぎゅっとしわをよせているはずである。