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ボクはうなぎだの文法

 奥津敬一郎の『「ボクハウナギダ」の文法』(1978年)は、

画期的な文法書であり、奥津先生は「だ」という

断定の助動詞、専門家筋は指定の助動詞というが、

この「だ」についてふかく研究されたかたである。

 

 奥津先生によれば、指定の助動詞「だ」はモナドであって、

このちいさなことばのなかに日本語の構造

そのものが宿っていると言われる。

「モナド」これはライプニッツの言説で、

それはわたしにもわからない理論であり、

奥津先生を介在していえば、「だ」という助詞には、

さまざまな含意がある、ということであり、

それを「モナド」と称していると解したのである。

 というふうにおもっておこうよ。

 

 奥津先生は、「ぼくはウナギだ」が、

主語述語になっていないことに着目する。

おまえがいつからウナギになったのか、

じゃないでしょ。

 

 わたしの頼みたいものはウナギなのである。

という意味合いを「ぼくはウナギだ」ですますことができる。

これが「だ」という指定の助動詞のハタラキだと、

先生は言う。

 

 わたしは奥津先生に反論するような立場でもなければ、

それほどの教養もない。が、たとえば、

高校生に「お前、田嶋先生だよね」って言えば、

「は、はい」と答える。田嶋先生が担任だからである。

 

しかし、文構造的には、主語が「お前」述語が「田嶋先生」。

これって「だ」の作用なのだろうか、

じつは、わたしはそうとはおもっていない。

 

 「キミ、田嶋さん?」

 

 と言われても「キミ」は「はい」と答えるだろう。

田嶋先生が、担任なら。

 

 ということは、「だ」を介さなくても、

この文意はつうじるということなのだ。

 

 「キミ、田嶋さん」に、「田嶋さんですか?」という、

指定の助動詞が脱落していて、やはり、

「キミ田嶋さん」にも指定の助動詞が機能している、

と言われれば、は、さようですかって、ことになるのだが。

 

 

 「わたし、ナポリタン!」なんて「だ」なくても

通じるじゃんっておもってしまうのだ。

 

「わたし、うなぎね」

「ね」でも通じるじゃん。

 

 

 なんべんももうしあげてすまないのだが、

この文構造は、何千年とつみあげてきた、

農耕民族たる日本人が、培ってきた真骨頂と

いってもいいのではないか、とわたしおもっている。

 

 おまえ、言わなければわからないのか。

 

 と、親からおこられた経験はだれしもある。

日本語の特質は、言わなくてもわかる、

というところにある。ぎゃくに、なるべくわからないように

語って、そこに宇宙的空間をつくったのが、

俳句という世界である。奥津先生は、「だ」という助詞と、

俳句の世界観と、それをむすびつけてはおられないが、

日本語の「モナド」は、そういう膠着語たる

言語の根っこにあるのではないかと、おもうのだ。

 

 

 毎週、火曜日は駅むこうの景気よくラーメン屋を

営んでいる岸さん(仮称)と

いっしょに買い物に行くことになっている。

というより、岸さんのトラックに乗せてもらうのである。

 

「よ」

と、また景気よいあいさつ。

 

「おねがいします」

 

「今朝よ、ドイツ語の女性がおれんチの店の前、

自転車で通っていったぞ」

 

「あ、そうですか」

 

「にこって笑ってな。かれのところ行くのか?」

 

「いや、ちがうとおもうけど・・」

 

 

 しかし、「ドイツ語の女性」というのは、

文法的にはまったく意味不明なのであるが、

だれだか、ほぼわかるところが、やはり日本語なのである。

これは「だ」ではなく「の」になにか

わけがあるのだろうか。

わからない。

 

 

 

 

 奥津先生は、「ぼくはウナギだ」のような文を

「ウナギ文」とよんでいるが、

「ドイツ語の女性」のような文を

なに文とよべばいいのだろうか。