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二文字では言わない

若いころは、
細くて柔らかい髪で、
電車の窓が開いていたら、
右に分けていた髪が
左に分かれてしまうくらいだった。

 むかし、半蔵という飲み屋で、
新聞屋の社長の若奥さんに、
髪をもみくしゃにされ
「えー、柔らかい〜」とか
遊ばれたものだ。


 そして、ずいぶん髪には気を遣い、
どのスーツにも、櫛がはいっていて、
いつでも、左から分けていた。

 いつのころか、
担任をしていた生徒から「河童」とか言われるようになり、
これを言ったの森本という男で、たぶん
森本はいま50歳ちょっと前くらいになっている
はずだから、てっぺんの量が減ってきたのは、
すでにそのころからはじまっていたのだろう。


ユイに「お父さん、頭に穴あいている」と、
いまから20年くらい前に言われたので、
刻々と、深刻な事態は
進行していたのだとおもわれる。


 
こういふうに、髪の量の減ってきていることを
かんたんに二文字でも言えるのだが、
じぶんから宣言するのもなんだから、
言わないでいるのだ。


 といいつ、トワエモアの「虹と雪のバラード」
という曲を聴くと、いつもこのくだりで
聞き違えをするのである。


♪虹の地平を歩みでて、

影たちが近づく手をとりあって

 

 ここである。


♪虹の地平を歩みでて
禿げたちが近づく手をとりあって

 

 なんか、異様な光景じゃないか。


 教え子の卒業生で、
こともあろうに、アートネーチェーに勤めた奴がいて、
こともあろうに、その会社の先輩、女性なのだが、
それを連れてあいさつに来たのだ。

と、その女性は、わたしに会うや、
目もあわさずに、ずっと頭部を見ているじゃないか。

そして、「はじめまして」でもなく、
「お世話になってます」でもなく、
彼女がさいしょに発した一言。


「お安くしておきますが」

 

 これは、ずいぶん失礼だとおもった。


 渋谷のスクランブル交差点のむこうがわに
薬屋があって、わたしは、ビタミン剤を購入、
なんだか、その袋の中におまけの
小瓶が三本はいっていた。


 が、これがすべて育毛剤だった。


 このおまけメッセージは、
「おまえは、〇〇だぜ」ってことだから、
これも失礼千万なはなしである。

 

 そもそも、髪の毛というものは、
じぶんでは気づかない部位である。


 背中といっしょである。
でも、背中は世界中にだれにも見られるわけだが、
唯一、じぶんだけが見られないということで、
「みずからの死」の比喩になるのだが、
髪の毛は、死にたとえられたことは
ついぞなかった。

 

 車に乗ったときに、じぶんの車の屋根が
どうなっているのか、電車に乗ったとき、
パンタグラフはどうなっているのか、
そんなこと気にならないじゃないか。


 それとおんなじくらい、髪の毛が
どうなっていようと、じぶんは気づかないものなのだ。

 だから、たまに、どこぞの店にはいったり、
エレベーターに乗ったりしたとき、
防犯用のカメラがついていて、
それでじぶんを後ろから写されているときがあるが、
え、これ、おれ? っておもってしまう。


あれ、いやだね。


だから、床屋さん行っても、
鏡でうしろがわを見せるのを禁止しているのだ。


ユイの母親が、いちどだけ、わたしに言ったことがある。

ほんとうに一度だけなのだ。

かれこれ、ユイの母親とは50年くらい
いっしょにいるのだが。


「ねぇ、トリプル増毛法やったら」

「え、あれ、一本200円くらいするから、
ぜんぶすると、クラウンが買えるくらいになる
らしいぞ」

「え、そんなに高いの」

「そーよ」
と、ユイの母親はこう言ったのだ。

「じゃ、太いの五、六本、打ってもらったら」


電信柱じゃないんだから。