王羲之の息子か孫のはなしだったとおもうが、
かれが、あんまり月がきれいなので、
高瀬舟をだして、友人の家まで、
月を見ようとでかけるくだりがある。
これも、失念しているが、
日本の説話であることはまちがいない。
が、船を漕ぐうちに、朝になってしまい、
友達の家まで行ったところで、
くびすをかえし、帰宅するという、
おまぬけなはなしなのだ。
しかし、その風流なことといったら、
たいしたものだ、といった賞揚で、
その説話はおわるのである。
で、この説話を、日本大学が入試問題にした。
テーマは、風流なこと、数寄者の逸話、ということなのだが、
いまの受験生は、ことごとく「風流」「数寄者」という
解答にたどりつかない。
このあいだ、この設問を解かしたところ、
ひとりも正解者がいなかったことに愕然とした。
つまり、いまの現代っ子に「風流」、ましてや
「数寄者」という言葉は死語となってしまっているのであった。
「数寄者」は「好き者」とおなじ。
「好き」とは、風流を好むということなので、
鎌倉時代あたりでは、常用的に使用されていた語彙である。
桜をめで、落花をおしみ、月をみて、
雲のあることを残念におもう、いわゆる花鳥風月は、
いまの時代には皆無となったのだろう。
わたしは、すこし狼狽しながら、
教室の男女に訊いてみたのである。
「風流ってしってる?」
この発問は「新幹線ってしってる?」くらいと
同格の安易なものかとおもっていたら、
おどろくなかれ、ほとんどの生徒さん、
「風流」をしらないのである。
言葉としても、よく理解していないらしい。
だから、ほら、風鈴がちりんちりんと、
窓際でゆれている、それをぼんやり眺めたりさ、
というところで、ふと、きづく。
そういえば、いま風鈴は騒音として
隣近所からクレームがあって、あれを
軒下に吊り下げるのもかなわないそうだ。
現代は、携帯が普及して、
すぐさま、ググって、答えがみつかり、
あっというまに、必要情報は手に入る時代である。
のんびり、辞書を片手に読書、
というひともすくなくなった。
ようするに、「風流」をあじわうためには、
それ相応の「時間」が必要なのだ。
太公望よろしく、じっくりと釣りをするのも、
いまじゃ、魚群探知機などのすぐれものがあり、
その場まで船をはしらせ、その下まで餌をおろし、
ねこそぎ釣り上げるという
ベルトコンベアのような釣法が常道である。
現代人は、時間を消費することを
罪悪とおもっている。
「世界の最新ニュースがリアルタイムで
あなたのパソコンに」という広告があるが、
これこそが、現代の美徳である。
いわゆるグローバリゼーションの権化のような
広告だ。
グローバル化とは、いってみれば、
価値観の一本化であり、
「だれが見てもわかるもの」という価値観の共有である。
情報の速度こそが絶対的価値となった、
と、言い直してもよい。
ハイデッガーというひとは、『存在と価値』で、
時間の本質を「時熟」ととらえた。
「時熟」とは、「今」の連続としてではなく、
「時間性の成熟」と考量したのである。
じつは、「風流」とは、この「時間性の成熟」のなかでのみ、
ありうる概念なのである。
そして、価値観はひとそれぞれで、
そのひとのこころのなかで、育まれてゆく。
現代人が、便利さや速度の幻惑にとらわれすぎて、
ひとりで悩み、ひとりでかんがえ、ひとりで逡巡し、
立ち止まるということをしなくなった、
そんな現況に「風流」さは姿を消していったのであろう。
ググって見ればいいじゃん。
この、まじないのような言葉に、
失ってゆく、本来的ななにかが
この世から去ってゆくことにわたしたちは
無自覚ではいけない、
そうわたしはおもうのだ。
と、言いつつ、さいきん月をみて
ぼんやりしているじぶんなど、
どこにもないことにも気づくのであるが。