賀茂真淵が、万葉集を「ますらをぶり」と称揚して、
それに対して、古今和歌集を「たをやめぶり」と批判したことは、
周知のこと。
「たをやめぶり」とは、
「内容的には優雅で温雅な、
表現上では技巧的で婉曲な歌風をさす語
(『日本国語大辞典』による)である。
わたしは、この賀茂真淵の言説を信じて疑わなかったし、
世の多くの学者も歌人も学究の徒も、
そうおもっていたにちがいない。
わたし自身は古今集が、女性的で、か弱くても、
けっして批判的な立場にはいないし、
真淵や正岡子規が、すべて正しいともおもっていない。
ただ、ここにひとつの書物がある。
ショシャナ・フェルマン著『女が読むとき・女が書くとき』
勁草書房 (1998-12-25出版)
副題に「自伝的新フェミニズム批評」とある。
この書は、「私たち自身、男性的な精神を内包していて、
社会に送り出されるときには、
知らず知らずのうちに
『男として読む』ように訓練されてしまって
いるのではあるまいか?」と語る。
また、「男性主人公の見解が、
世界全体を見る基準であると、
私たちは思い込まされてきたのである。
こんな状態で、男性的精神を追い払えと言われても、
一体どこから追い出せというのであろうか?」と、ある。
つまり、彼女は、男性文法なしには読み書きができないし、
それを追い払う方法論もまだ示されていない、というのである。
このくだりを見て、わたしは、えっ、とおもったのだ。
はたして、わが国の文法事情はどうなっているんだろう。
あれほど、賀茂真淵にコケにされた古今集が、
男性語法のうえにあったのだろうか。
つまり、女性は擬制的に文字を連ねていたのであろうか。
表面上は女性的であっても、その根底には、
でんと男性が存しているのか。
けれども、フェルマン女史は
「社会」について語っているので、
「社会」という語は近代の所産だから、
近代以前の瑞穂の国にまで
考量がおよんでいなかったといえば、それまでだが、
では、何歩でもいいから、
ゆずって、この国の文体が女性的であった時代が
あったとそう認めて、
それが、いつ男性文体にシフトしたのであるか。
そのシフトのしかたはいかなるエネルギーをもってなされたのか。
わたしには、とんとわからない。
それは明治維新の近代化なのだろうか。
あるいは、日本文化という独自性は、
男性文体と女性文体とを偶有しているのか。
でも、その女性文体は、やはり擬制的で、
ほんとは男性文体の変化要素にすぎないのでは、
という同語反復においやられるのである。
もし、どなたか、この疑問に一条のひかりを
さしてくださる方かいらしたら、
ぜひ、お知恵を拝借したいものである。
フェルマンはこうも言う。
「私たちは女であるくせに、裏ではいともあっさり、
男として文学を読んでしまう」と。どうだろう?
川端康成の「雪国」での、
「駅長さあん」
という駒子の声に、もうすでに、わたしは女性言語を
感じてしまうのだが。
「雪国」を賀茂真淵に読ませたかったな。