世の中には余計なことを言う輩がいる。
まだ、わたしが高校の教師をしていたころの話である。
部活動の練習を終えてから食事に行った。
しばらくぶりにからだを動かしたものだから、
腰もぐりぐり痛いし、肩もあがらなくなっている。
バレーボールは四十を越してからはやるものでないと、
T教諭が言っていたことをおもいだし、
文字どおり骨身にしみてわかったようなきがする。
食事は友人と行った。こ
のへんについてはふかい詮索はご無用。
なにしろ部活動の練習着のまま、
つまりジャージ、で車に乗り込み出かけたから、
高級な料亭にはゆけない。目黒通り添いに、
イタリアレストランがあったから、
これも文字どおり、行き当たりばったりで入ってみた。
店内は、平日の夜だからか、
がらんとしていた。
もうすこし自由が丘よりだとちょっと瀟洒な
イタリア料理屋もあるが、
そういう場所は食事だけでも
席料を取ったりする場合もある。
このあいだ行ったレストランなど、
地下にとんとんと降りると、
店内、満員。ピザいちまいとスパゲティ二皿で、
たしか五千円をすこし出ていた。
高い。あとから調べたら、席料でひとり五百円かかるそうだ。
べつにたいしてうまくもないのに、
なんでだ。こういうのをむつかしくいうと不条理という。
きょうの店はどうも席料はないらしい。
値段も手ごろ。客のすくないのがたまにきずで、
居心地はかえってよくないけれど。
と、明るい女店員が来て、
メニューを置いていった。見ると、
広島産のカキのスパゲティがある。
写真ではあるがすこぶる美味に写されている。
そのふれ込みは、
岩のりとあさりのだしとで和風の風味が加味されているという。
なおさらうまそうじゃないか。
が、良くそのメニューを読んでみると、
ニンニクがはいっているのだ。
じつは、わたしはニンニクが駄目なのである。
けっして食べられないわけではないが、
ニンニクという食材はすべての味をニンニクにしてしまう。
横暴である。
外から帰宅して足も洗わずにこたつに入ってきた
高校生のような自己中心的な乱暴さと
無神経さと強引さをわたしはニンニクに抱いている。
口のなかがあの強いかおりに凌駕されてしまうのが不快なのだ。
「この料理、にんにく抜けますか」
「えー、たしかだいじょうぶだとおもいますが、
でも、これはニンニクがおいしいんですけど」
と、メニューを運んできたさっきの店員が言った。
「にんにく、だめなんですよ。だからそう言ったんですがね」
ニンニクがうまいかまずいかは
ひとの勝手だ、あなたの判断など聞いていないのだ、
と言いたかったけれど、ここはぐっと我慢をした。
と、彼女はこう付け加えた。
「カルボナーラの卵を抜く方もいらっしゃいますから、
たぶんだいじょうぶだとおもいます」
「あ、そうですか。それではお願いします」
と、わたしはその他にピザと友人はカルボーナーラロッソを注文した。
だいたい、カルボナーラに卵を抜く客がいると、
なんでカキのスパゲティにニンニクを抜くことがだいじょうぶなのか、
そのへんの因果関係がすこぶる希薄に見えたし、
だいいち余計なことだろ。
それに、そもそもだいじょうぶとはどういう意味で
どうだいじょうぶなのか、とても疑問であったけれど、
これいじょう話がこじれるのもなんだから、
わたしは紳士的に沈黙を守ったのだ。
と、この女店員はこう言った。
「うちは量が一人前半はいっていますので、
お二人だとけっこうありますけど、よろしいですか」
「え。そんなに入っているの」
「はい」
この情報はありがたかったね。
「じゃ、カルボナーラロッソはいいや」
友人もそれに同意して、
われわれはカキのスパゲティだけに注文をしぼった。
しばらくするとさっきの店員が
ワイングラスに細長い竹ひごのようなものを運んできた。
「スパゲティの揚げたものです。どうぞ」
サービスらしい。
「あのぉ」
「なに?」
わたしは訊いた。
「あのぉ、さっきから気になって、
言おうかどうしようか迷ったんですけど」
と、その娘は言った。
「なに?」
わたしは気になって店員を見上げた。
と、その娘はすこし背をかがめてわたしにこう言った。
「お客様、耳から血がでてるんですけど、どうかしましたか」
そういえば、さっき車の中で
電動ひげそりでじょりじょりやっていたら、
耳元でがりっと肉をはさんだのである。
どうもそこから血が出ているらしい。
だが、傷は浅いし、耳の中からとろとろ脳挫傷みたいな
出血をしているわけでもない。もっといえば、
余計なお世話だ。で、わたしは、
「あ、いいの、これ、さっき傷つけたんで」
「あ、それならいいんですが」
いいなら、ほうっておいてくれよ、
とわたしはこころの中でつぶやいた。レストランに出かけて、
耳から血が出てます、
なんて店員に指摘されたことなどわたしには未曾有の経験であった。
しばらくして、ピザが来た。
トッピングにはアンチョビ。あれはうまい。
アンチョビは食材というより香辛料に近いね。
西洋のお新香みたいなものだ。
お次にカキのスパゲティ。アルデンテに仕上がっていて、
カキにもきょくたんに火が通っているわけではなく、
じつに美味であった。
これなら、ニンニクはまったく使わなくて平気である。
ベースになっているあさりのソースも軽く、
かおりもよろしくわたしは全部飲み干してしまったくらいである。
わたしたちがすっかり舌鼓をうっていると、
違う店員が、おまちどおさま、と言いながら、
もう一品届けてきた。見ると、
トマトソースベースのスパゲティ。真ん中に卵黄が乗っている。
カルボナーラロッソである。
えっ。わたしはおもわずその店員の顔を見上げてしまった。
「あのー、頼んでないんですけど」
「あ、そうですか」わりに冷静な声で彼女は言った。
「もう、召し上がれませんか」
「いやー、もう腹いっぱいですよ」
「もしよろしければお召し上がりになってください」
と、言うことはこれはロハ、只ということらしい。
どんなに満腹でも、只、無料、サービスと聞くと、
高度文明時代の欠食児童は
触手がうごいてしまうのだ。悲しい性である。
「あ、そうですか、それでは」と言いながらわたしたちは
きれいさっぱりこのロッソを平らげてしまったのである。
意地汚いったらありゃしない。
舌鼓、腹鼓、赤ずきんを食べたあとのオオカミのようになっていたわたしに、
さっきの女店員がやってきた。
「さきほどはたいへん失礼しました。
わたし伺っていたはずでしたが、どうも勘違いしまして」
「いやー、いいんですよ。
むしろすっかりおなか一杯になってしまいました」
と、わたしはあいさつした。
「ほんとですね。汗かいていますよ」
「・・・」
うるせーな。おれが汗かこうが、
恥かこうが勝手だろ。
これは腹一杯で発汗してるんじゃないんだよ、
特別辛いタバスコの類似品をだぶだぶピザに振りかけて
食べたから汗かいてんだ。
まったく余計なこと言いやがって 。
レストランに出かけて、
汗かいてますよ、なんて店員に指摘されたことなど
わたしには前代未聞の経験であった。
ま、なんであれ、すっかり満足なわたしどもはレジに向かった。
「ほんとに失礼しました」
さっきの店員だ。
「いや、かえってすみませんね」
「三千二百二十円になります」
やはり、カルボナーラロッソの値段は入っていない。
わたしは料金を支払い、
「ありがとうございました」とあいさつする彼女に
そっと千円を渡した。心遣いへのチップである。
と、とっさに彼女は、
「いえ。うちはそういうことしていませんから」と言って、
急いでわたしにその金を返そうとした。
「いいよ。とっておいてよ」と言ったら、
「困ります。困ります」と言ってわざわざ
わたしのところまで小走りで返してきたから、
そこまで言うならしかたない、
わたしは千円をまた自分の財布に納めたのである。
「悪いね」とわたしが言うと、
彼女は
「とんでもありません。ところで体育の先生ですか」
と、訊いてきた。たしかにジャージだったけれど、
わたしは苦笑して、
「ちがうよ」と答えた。
「なんで、そうおもったの」と訊くと、彼女はこう答えた。
「だって、耳から血、出しているし」