ロレックスにルイビトンの女性が
もっともナンパされやすいとむかしからよく聞くことだ。
ロレックスの時計がわるい、
ともうしあげているのではない。
おなじく、ルイビトンのバッグがよくない、
そうもうしあげているのでもない。
そうではなくて、本物志向なのか、
ブランド志向なのか、というところをもうしあげたいのだ。
ただし、
ブランド志向という生き方を否定するものでも
ないけれども、
「ロレックスさえ持っていればステータスが
完成される」とおもうひとが、必ずいるはずである。
それは、「物の価値」ではなく、
その商品に付着していてる「社会的な価値」である。
つまり、じぶんの思想なり、考えなり、
そういうオリジナティや創造性のほとんど欠乏しているひとは、
とりあえず、ロレックスさえあれば、なのだ、とわたしはおもう。
ブランド志向は、農耕民族性に関わるものである。
日本人は、農耕民族のDNAをじゅうぶん引き継いでいる。
その証に「みんなといっしょ」という発想が、
いまだに尾を引いているからである。
「なんで、わたしだけなんですか、
みんなやってるじゃないですか」
これが農耕民族特有の発話である。
エスニックジョークでもわかる。
ここから飛び降りればヒーローになれるよ、
はアメリカ人。
これは義務です。
これはドイツ人。
みんな飛び込んでいるよ。
これが日本人。
むかし、中国が国民服を強制されていたころ、
町の女性は、マフラーで、みずからの差異性を表現した。
マフラーしか、自由はなかったのだ。
日本は、幻想かもしれないけれども、
高度な民主主義国家であり、服装も自由である。
が、この農耕民族性がいたずらをし、
流行りの服を、なるべくはやく着することが
もっともステータスであるとおもいこむ傾向にある。
上位にある集団や個人の独自性を模倣し、
一方で下位の集団や個人とのちがいを
強調、差異化のようにみせて、じつは、
同化のベクトルでしかない、
こういう機構にのって動いている社会装置を
「モード現象」というが、
まさに、この流行りものがそれなのである。
みんなより上、とおもっていて、
まわりをみたら、みんないっしょ、というやつだ。
そして、それがロレックスとルイビトンなのである。
時計だって、ちょっと調べれば、ほんものはいくらもある。
パティックフィリップ、ヴシェロンコンスタンチン、ブレゲ、
ユリスナルダン、ボームメルシー、ジラールペルゴ、
枚挙にいとまない。
バッグだって、テストーニ、モラピト、細谷商店、などなど。
じぶんの生き方をじぶんでしっかりもっていれば、
おそらくは、ロレックスにルイビトンにはならないだろう。
じぶんの生き方の根本に「模倣」があれば、
それが、そういう飾り物に象徴されるわけである。
欲望は模倣である。
だれかが持っているので、じぶんも持ちたい。
「ね、自転車買って」
「なんで」
「だって、となりのミヨちゃんももっているもの」
これが欲望である。だれかが持っているから、持ちたい。
あるいは「みんな持っているから」である。
ようするに欲望は、それが達成されるや、
またあらたな欲望がうまれ、欲望は無限に再生される。
しかし、みずからのこころの奥底から
生まれ出る、創造性のあるおもいは「快楽」といって、
これは独自性がつよい。
だれもしたことのないものに挑んでいるひとは、
そこに快楽を求めるからだ。
「みんなといっしょ」という発想は、
ひょっとすると、じぶんの考えもろくろくなくても
生きられるものだ。
じぶんの意思を放棄したところに、
全体主義がうまれる。
ひとりのある人物に従っていれば生きられる。
これは、ひどく楽な人生である。
戦時下のドイツやイタリアがそうなったではないか。
ファシズムという考量は、国民の脳の思考停止に
もっとも有効である。
しかし、そのあとに待っていた世の中の悲惨さを
われわれはじゅうにぶんに経験している。
農耕民族性は、個人レベルでの「全体主義性」を
含有している。
そういう考えなしの方は、けっきょく、
個別性のつよい、オリジナリティのある人物に
惹かれるものなのである。
ロレックスにルイビトンは、
わたしは、だれにでもついてゆけますのよ、
あなたのいいなりになりますわよ、
という旗をふりながら街を歩いているのである。
ただし、ナンパされやすいひとを
わたしはわるいともうしあげてるわけではない。