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「うち」のエクリチュール

 ロラン・バルトは言語を三つの層に分節した。

国語にあたるものとして「ラング」。

個人の好みの言い方を「スティル」。

そして、生き方とセットになる物言いを「エクリチュール」と呼んだ。

だから、「おいどんは」なんてしゃべるひとは、

「おいどんのエクリチュール」となり、

飯はたらふく食べるわ、

着物は西郷さんのようになるわ、

歩き方まで「おいどん」の歩き方になる。

 

 さいきん、とくに気になるのは「うち」という一人称である。

そこで、「うちのエクリチュール」についてかんがえてみたい。

「うち」という一人称は、わかい女性のなかでは一般である。

もちろんこの話は、関東エリアにかぎるわけだが、

「わたし」でも、「あたい」でも、「わたくし」でもなく、

この「うち」という語の含意はなんなのだろう。

 

女子高校生の何人かに訊いてみるが、

半数くらいは「うち」である。

 

「うち」は、「内」でも「打ち」でも「撃ち」でもなく、おそらくは「家」なのだろう。

それも、この「家」は包括的な「家」であり、

肉親の血のつながりとは無縁の幻想的な「家」を作りあげているのではないだろうか。

 

つまりは、関西言語の影響もかんがえなくてはならないだろうが、

まず、言えることは、わかい子にとって、そういうしかたでもって、

ひどく使いやすい一人称を選択した、ということである。

ひょっとすると「わたし」や「わたくし」だと、

突出した「じぶん」が屹立するのかもしれない。

世界のなかのひとり、という責任もおびるかもしれない。

 

しかし、「うち」という、内実をともなわない「家」は

「じぶん」という人称の焦点の曖昧性を意味する。

じぶんを宣言するために、あいまいな家族の「場」を要請し、

その精神的なアゴラ(広場)のなかでみずからを代表するのである。

 

そういうしかたで現れた「じぶん」はいわば、

人称の弱体化以外のなにものでもない。

 

ワン・オブ・ゼムではなく、ファミリィ・オブ・ゼムである。

 

それは、どこかに身を隠す「じぶん」がいるのかもしれない。

目立ちたくない「じぶん」かもしれない。

ひどく弱い一人称である。

あるいは、それは、相対的自我構造の余波かもしれないが、よくわからない。

 

そもそも、携帯電話の普及による個別化がすすむ世の中で、

家族との縁も疎になってゆく現状に、

言語的には、たったひとりの確固たる自我をもつ「われ」ではなく、

家族のなかに沈潜するあいまいな

自我構造の「じぶん」という立ち位置を選択する、

このパラドクシャルな事況はなにに由来するのだろうか。

 

 

 個別化のすすむなかで、

自我の曖昧性がうまれるということ。

この理路を架橋するひとつの考量は「自己愛」ではないか、とわたしはおもっている。

 

みな、じぶんが可愛いにきまっている。

じぶんをできるかぎり傷つけたくない。

気づけば、携帯依存になりつつあるじぶんが、

まわりを見回せば、たったひとりの個となっている。

だれしも所属欲求があるわけだから、

こんなときこそ、幻想家族を要請し、

ナルシスチックな「われ」を出現させるのではないだろうか。

個別化ゆえの「うち」だったのではないだろうか。

 

 あくまで、これは推論であり、管見である。

そして、わたしの興味は「うちのエクリチュール」をつかっていた少女たちが、

いつ、このエクリチュールを放棄するのだろうか、ということだ。

 

世の主婦で「うち」なんて言っているひとを

聞いたことがないからである。