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対幻想の弱体化

吉本隆明の術語に「対幻想」という概念がある。

 このように、あたらしく作られる概念を「道具概念」とか、
「操作概念」とよぶのだが、
「対幻想」とは、「対なる幻想の共同性」という意味で、
吉本氏によれば、家族の本質は婚姻ではなく、
対幻想という、男女ふたりの心、意識、
あるいは観念の共同性であり、
そこには、男女ふたりで作る、豊穣で広大で深刻、複雑な世界があるという。

 芹沢俊介という評論家は、それを敷衍して、
「対幻想」は家族間でもありうるとした。

しかし、「対幻想」状態の家族は、しだいに減り、
いまでは、自己本位主義が台頭したという。

つまり、家族内部がばらばらになり個別化され、
統一性を欠くようになったのだ。


 このような一種の崩壊状態を「アノミー」とよぶ。
フランスの社会学者、E・デュルケームの術語である。


 自己本位状態は、強固に社会化されていたら
ありうるはずはない。

 社会とは、共有の価値、共有の信念が共同体の
各メンバーの行動を規定し、その結果、
その共同体が統治されている状態である。


 そこにはアノミー化や、自己本位状態はない。

そして、この自己本位化が、携帯電話の普及により、
さらに悪化し、社会空間のアノミー化をひきおこすことになる。


 ようするに、ひとのことはどうでもよい、
じぶんさえよければそれでいい、という個人化の傾向へと
導かれてゆくわけだ。


 そこで問題。

芹沢俊介氏のいう「対幻想は衰弱する」という
意見にたいして、賛成か反対か、あなた自信の意見を
明確にし、その理由を具体的に400字以内で論じなさい。


 これ慶応大学の入試問題。


さて、それをおれに書けと、言うので、
しかたなく書いてみた。


「対幻想」という操作概念の衰弱化は
おそらく加速度的にすすんでゆくだろう。

わたしは、筆者の意見に賛成である。


そもそも、文明は、ニンゲンを便利に
住みやすくするために発達してきたはずだが、
その文明の進歩により、ニンゲンはしだい文明にすがり、
言ってみれば横着になってきた。

ぎゃくにいえば、横着を謳歌するために
文明はあったといってもよい。
しかし、ニンゲンのための文明であったはずが、
その文明によって、
われわれは想像力やさまざまの本能的なもの、
あるいは人間性をうしなうようになった。

そして、文明の不可逆性は自明であり、
つまりは、むかしのようにはもどれないわけで、
そこに携帯電話の普及による個人化がすすみ、
携帯依存がさらに悪化するならば、
「対幻想」なる対人関係における
親和性はより希薄になること明白だろう。

子どもの遊びひとつを見ても、
ひとりはゲームを、ひとりは漫画を、
とばらばらなのが現況だ。

(398字)


 ま、いいか、悪いかはわからないけれど、おもったことを書いてみた。