ひさしぶりにゴキブリを見た。
黒い大きなヤツである。
ま、大きいっていってもニンゲンからみれば、
親指くらいの大きさ、ニンゲンに勝てるわけない。
しかし、一匹いれば、その陰に30匹はいるとおもえ、
というのがゴキ君との付き合い方である。
ということは、その30匹がいっぺんに出てくれば、
その裏に900匹がいる計算だ。
そして、その900匹がいっぺんに出れば、
2万7000匹のゴキ群がいることになる。
でも、いまは、この一匹だけなのだが、
そのゴキ君、となりの部屋をすばしっこく動いて、
玄関の隅にもぐりこんだのだ。
となりの部屋というのは101号室のことであり、
無人である。わたしが着替えたり、
風呂にはいったりするだけの、
ひどくもったいない部屋なのだ。
だから、ゴキブリがいようと、
ネズミがいようと、アナコンダがいても、
ふだんは、我関せず、どうでもよいのである。
が、やはり、こいつは始末せねばならない。
わたしはクロックスを構えて、出てきたところを
一撃、と待つのだが、むこうも殺気を感じたのか、
隅からぴくりともしない。
なにしろ、ニンゲンに換算すると、170キロくらいの
スピードらしい、あの走り方は。
さっき、コンビニに寄ったので、
ゴキブリ用のスプレーでも購入しておけば、
こんなときに役立ったのに、と後悔。
後悔さきに立たずというが、さいきんは後悔あとに立つ、
というのもあるそうだ。
で、この沈黙がしばらく続いてラチがあかないので、
わたしは、しかたなくハエ・蚊用のアースジェットを
玄関にぶちまけた。
玄関は、雲仙普賢岳の火砕流のごとく、
まっしろになりわたしの足元が見えなくなるくらいだった。
でも、しょせんハエ・蚊用である。
太古からの生き残りの、ニンゲンにとっては無用の
黒光りした生物は、そんなにヤワではないだろう。
わたしは、あきらめて自分の部屋にもどった。
それから、しばらくして、101号室のドアを開けたら、
なんと、あのたくましいはずのコックローチが、
仰向けて、ヒクヒクしているのだ。
驚いた。
ハエ・蚊用でも、ゴキブリは死ぬのである。
それとも、さいきんのゴキブリは、いまの若者のように、
軟弱になってしまったのか。
わたしは、戦勝の喜びよりも、
むしろ、ここにこうやってひっくりかえり、
いまにも死を迎えようとしている
わたしの敵に、
はかなさと情けなさを感じてしまったのである。
「おい、しっかりしろよ。ハエ・蚊アースで死ぬなよ」
わたしは、心のなかでそうつぶやき、
クロックスのつまさきでピチュッて
介錯をしてあげたのだ。
しかし、虫というのは、こういうふうに害虫とよばれるものから、
益虫といわれるものまで、種々雑多ではあるが、
どの虫も、親のしつけがいいのだとおもう。
あれは、よほど前もって親が教えてないと
ああはゆかないだろうね。
ニンゲンなんて、その点、醜いよ。
戦争映画を見たまえよ、
だら~として死ぬやつ、丸まって死ぬやつ、大の字で死ぬやつ、
さまざまだ。
だが、虫のお行儀のよさったら、
蜂でも、チョウでも、カナブンでも、ハエでも、そしてゴキブリでも、
死ぬときは、往生をねがって、
みな両手をあわせて死ぬじゃないか。