ツィッター、いまのXというみょうなものができて、
勘違いのバカをずいぶん排出させてきた。
だれでもなんでも発信していいと、
だれが決めたのか。
文章の存在理由というものは、
ひとをすっかり感心させたり、
ひどくいい気持ちにさせるためにある、
そう語ったのは丸谷才一である。
「つぶやき」という
ひとを勘違いのルツボにおとしいれる語彙をみつけて、
これにバカが便乗する。
全世界でそうなった。
ネット環境の精神的インフラが整わないうちから、
すでにネット社会は、取り返しのつかい方向に
走り始めているのだから、いたしかたないと言えばそれまでである。
すでに化石化されているミクシィにもつぶやきの
欄が加わった。
つぶやいてもいいけれども、
つぶやきにはつぶやきのルールと、
ノブレスオブリュージュが付加されることを
ちゃんと理解していないと、
文章を他者に発信することはままならぬ、
ということを肝に銘じてほしいものである。
つぶやきだから、
そこに、とんがった感性があってもいいと
おもいこむのは、それは社会に生きるにんげんとしては、
身勝手な振る舞いと、そうおもいたまえ。
友だちともつきあえず、彼女も彼氏もおらず、
いつも、スマートフォンを恋人のように抱え、
そこに、つばを吐くようにひとことふたこと。
日本というより、世界の終焉はこんなふうにして
しだいに朽ちてゆくのかとおもうと、
いささか気が沈んでくるのである。
と、言いつつ、わたしは、きょうも、
「開店しました」とか、Xでつぶやいている。