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蝉のはなし

 高橋淑子の歌集の歌評っぽいのを「蓮」という雑誌に
書いたけれども、高橋さんから、

「まじめに書くときもあるのね」って、褒めてんだか、
よくわからないコメントをもらったが、
わたしとて、たまには、真面目な話もするのである。


ある方が上京して、短歌の話が聞きたいって

おっしゃっていたので、 
この話をしようとおもっていた。


 それは「名付ける」ということ。
そもそも、記号というのは、世界分節の差異化であり、
記号によって、ものとものとが区別されている。

 それが「名付ける」ということである。

 で、ひとというのは、いちど名づけてしまうと、
その本質をわすれるという傾向がある。

 だから、ぎゃくに「林檎」という言葉をうしなったとしよう。
そうすると、わたしたちは、果物屋さんで「林檎」を買うのが、
びどく困難になる。じゃあ、どうするか、「林檎」の本質にあたってみて、
もっとも「林檎らしい」表現をさがさなくてはならない。


 「すみません、すりおろしてもおいしい果物ください」

たとえば、こんなふうに。


 「名付け」てしまうと、ひとはその対象物を考量しなくてもいい、
ということを共有している。


 だから「蝉」。


 「蝉」と名づけてしまうと、われわれはすでに「蝉」の
ほんらいをかんがえずに生きている。


 じっさい、喧騒なほどの鳴き方は、暑さの象徴だ。

 しかし、わたしはあの大木のところで
がむしゃらに鳴いている蝉を見て、友人には、
「あの蝉は死んでいるんだよ」と教える。


 蝉というのは、地中に7、8年生きていて、
余命わずかとなると、のこのこ地から這い出し、
危険を承知で、まったくべつの姿となって世に出る。

 しかし、蝉の成虫にとっての世とは、
死の入口なのである。


 そもそも、わたしは、あれを「成虫」とはおもっていない。


 蝉の成虫は、地中の7.8年の姿だと、わたしはおもう。

 だっておかしいじゃないか、細長い針みたいなのが、
口から出ているのだよ。あれじゃ、捕食できないじゃないか。
長生きしたいなら、強い顎がないと。

 内蔵だってほとんどないはずだ。

 つまり、もう生きることをやめにした姿、ということなのだ。

 点滴だけで生きているひととほとんどおんなじ、
にんげんで言うなら、酸素ボンベひとつを渡されて、
宇宙を遊泳するようなものである。


 その、蝉の人生のほんのわずかの時間に、
あんな姿になって、伴侶をみつけ、そして
子孫を増やそうとしている。


 わたしたちは、あの姿に「蝉の成虫」という名前を
与えてしまったことから、あれが「蝉の成虫」だとおもいこんでいる。

蝉の抜け殻というのがあるが、
じつは、蝉の抜け殻ではなく、そこから這い出してきた、
あの透明な羽と、一本の樹液を吸う管をもった、
あれこそが、蝉の成虫の抜け殻であり、
われわれが、言うところの抜け殻は、
抜け殻が置いていった抜け殻の抜け殻なのであった。

 と、とてもややこしくなったので、
まとめるのだが、


 つまり、われわれが見たり、聞いたりしている、
「蝉」と名づけてしまったあれは、
死にながら鳴いているのである。