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もっとも悪い教師

 いい先生というものは、教え方の悪い先生である、と
パラドクシャルな物言いに聞こえるかもしれないが、
それが「真」というものだとおもう。

 だってそうでしょ、このひと何言ってるかわからない、
じゃ、じぶんで真理を追求しよう、読解法をみずからあみだそう、
もし、そういう生徒がいれば、藍より青く、その先生を越すではないか。


 あんまり、ものの見事な読解法と、教授法で生徒に接すれば、
受験や、模試ではいい結果が得られるかもしれないが、
それは、カンフル剤でしかなく、その先生より大きくはなれないのである。


 世阿弥というひとがいた。能の大成者である。


 このひとの「至花道」という書物には、「体用」(これを「たい」「ゆう」と読む)について、
かたるくだりがあり、これが、真実の能に達成するための正しい稽古について述べた、
最終部分である。


 能には「体」と「有」とがあり、「体」というものは心でまなぶもの、
「有」とは、目で見てまなぶものである。
 初心者は、目でまなぼうとするが、それはいけない。心でまなびなさい。
心でまなぶ、すなわち「体」をまなべば、おのずと「有」が備わるものである。
「体」とは花や月である。「有」とは、その匂いやひかりである。
「体」がなければ、「有」はない。

 ま、めんどくさいからこのくらいにするけれども、
じゃ、けっきょく「体」とはなにか、「有」とはなにか、
それについては、語っていないのである。
 
 「体」というもの、つまり心でまなべば、それに付随して「有」が
備わっている、けっして「有」をまなんではいけない、というけれども、
それの本質には到達していないのである。


 ニーチェが、「超人」という概念をうちだし、それを理想としたが、
ニーチェじしん、「超人」とは如何なるものか、ということには
言及しておらず、「超人」でないものはどういうものか、それだけを
語っているのであるが、その理路と類比的な構図である。

 
 この、本質的なこと、
もっともその言説の急所の部分を語らない、
これがじつは、弟子をつくる大きなファクターとなるのである。


 はっきりものを言わない、ということは、それは暗号である。
暗号というものは、これが暗号ですよ、と語ることはない。

 それは、まるで暗号でないように見せながら、その奥に、
「表層とは別の意味」を含有しているわけである。
 
 そこにたどりついたものだけが、「わたしだけに送ってくれた暗号だ」と、
すっかり気持ちよくなるものなのである。

 だから、世阿弥のお弟子で、あの「至花道」の
「体有」のコールサインに気づき、
そこにダブルミーニングがあることを理解し、
「この本の真意がわかっているのは私だけ」という有能感にひたる読者、
弟子を世阿弥は期待しているのではないだろうか。


 はっきりものを言わない師、それこそが弟子たちを
多く排出する師なのだとおもうのだ。

 だから、よくわかんない説明をする師の、そのダブルミーニングに気づく
生徒こそ、師を乗り越えてゆく学徒なのではないだろうか。


 映画でも、あ、このシーンの裏側にあるものにきづいたぞ、
これは、監督とわたしだけの、パイプラインだっておもえば、
その監督の作品を、全能感をもちながら、今後も観ることになるのだろう。


 そういえば、わたしは、「おくりびと」という映画で、
ものすごい斜めからその映画を見ると、あるシーンで、
ひとの顔が映ることがあった。あれはスタッフかなっておもって、
正面から観ると、そのフロントガラスに映る顔が見えない。
で、また、じぶんのデスクの椅子に腰下ろし、ものすごい斜めから
観ると、ガラスに映るひとの顔。

 これは、監督とのパイプラインではなく、
もっと深淵なる世界からのわたしだけへのメッセージではないかと、
そう感じる(誤解?)わけであった。


 ということは、結局つまりだ、

わたしは、もっとも悪い先生ということになる。