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店舗案内

野田さんご来店

 「なんともなかったよ
しばらくは死なないってよ」
と、喜んで店にはいってきたのは野田さんである。

 甲状腺異常という健康診断で、
青山の病院で精密検査を受けた結果が今朝だった。


「なんだ、すこしは弱ったほうがよかったのに」

「きみは、いつもそうやって年寄りをいじめるんだからよ」

「いつもうるさいから、すこしくらい静かになったほうがいいですよ」
と、毎回にくまれ口を叩くのだが、
そんなことではへこたれない。


「祝いにビールだ」と、
野田さんは400円を払う。


まだ、12時前である。昼からビール、おつだね。

この日、たまたま、娘の弁当にと、
わたしは、きのうから厚焼き玉子と唐揚げ、
それに、きのうの夜、半額で買ってきた刺身と、
じつにもりだくさんの食材が、
冷蔵庫にはいっていたのだ。

だから、わたしは、
野田さんに、酒のつまみにそれらをお出しした。


「お、ラーメン屋なのに刺身か、へー」

「ま、どうぞどうぞ」

「しかし、おれが来ること知らないのによくこれだけ
用意したものだな」

「いえ、ま、あったもんで」
このへんの事情を説明すると、ややこしいので、
野田さんには割愛した。


「なあ」

「はい」

「祝いにビール一本ご馳走してくれよ」

(ということは、おごれ、ということらしい)

わたしは、エビスビールを一本カウンターに置いた。

「はい、どうも」
と、二本目に突入。


そろそろ、しま坂にもお客さんたちが詰めかけてきて、
野田さんは、いちばん端っこに追いやられたが、
帰る気配はない。


「野田さんなんか食べます?」


「ん。いいよ、すこし手が空いてから」

この日は、むやみに大勢がいらしたので、てんやわんやだった。
妻も、なんでネギが少ないの、とかブーたれていた。

だから、しばらくうるさい野田さんもしずかにすわっていた。

一段落したところで、つけ麺のたれが残ったので、
わたしは、野田さんのために、100グラムくらい
茹でて、つけ麺をお出しした。

「食べる?」

「ん、おう」

うちのつけ麺は、もちもちで食感がよく、それにかおりもよい。

わりに評判のよい麺である。

つけ麺が好きな方は、これしか頼まない。


「どう?」

「おれはよ、細麺が好きなんだ。これ太いな。
でもいちばんこの店で好きなのは、黄金麺だ。
あれがいい」


「おい、サチコ、黄金がいいっているぜ」

と、皿を洗っていた妻は、にこりとした。


「じゃ、そろそろ帰るわ。また、釣り行ける日があったら
連絡してくれよ、前もってな。みんなきみに合わせてるんだから」


「はい、すみませんね」


「じゃ、ごちそうさん」

と野田さんは背中を見せ、かるく手をあげて店から出て行った。


けっきょく、かれが使ったお金は、
さいしょのビールの400円だけであった。