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6分 都市化

 わたしは東京のはずれに棲んでいる。

 駅まではゆっくり歩いて6分。子どものころは駅まで遠いと感じていたが、
まわりの方がたを見れば、まだ、ましな距離である。

 駅には、ふたつの線路が通っていて、片や溝の口や日吉という
神奈川の真ん中まで行けるし、片や、埼玉県まで一本で行ける。

 その間には、目黒駅や自由が丘があるから、
渋谷にも、新宿にも、原宿にも、中華街にもなんなく行くことができる。

 おそらく便利な土地だとおもう。


 電車は、ほぼ時間通りに到着し、
ぎっしりと密集したダイヤを乱すことなくこなしている。

 これが都市というものだ。すべてがぎっしりと詰まっている。

 わが街には、空き地がない。公園はあるが、空き地がない。

 公園といっても砂場には柵がはりめぐらかされ、
さながら金網デスマッチのごとし。これは猫が侵入しないための方策らしいが。

 だから、公園でも、自由になにかをすることはほとんどできない。
サッカー禁止、キャッチボール禁止。

 できることはささやかな鉄棒と滑り台、それに砂場。


 すべて大人が「こうしなさい」と言った通りの空間である。

 かくして、子どもたちは自由な空間を失った。


 街は都市化がすすむと、自由気ままな空間が消滅する。
自由な空間とは、にんげんの手が加わっていない領域である。
言い換えれば、すべてが「管理」された場になったということだ。

 都市の対義語は「自然」であるが、この自然のなかに自由がふくまれる。

 子どもたちには、都市の中では、
みずからの想像力でもって遊ぶ空間がほとんどない。
おとなの「こうしなさい」のなかでのみ、遊ぶことを許されているのである。
あるいは、おとなの手垢のついたものでしか遊べないといってもいい。


 ああすればこうなる、という図式こそ都市を形成する考量である。
つまり、因果の図である。


「部長、こういうイベントを組みたいのですが」

「うん、じゃ、これをするとどういうことになるのかね」

 ああすればこうなる、という設計図を示さなければ、
あたらしい提案は廃案となる。

 結果がわかっているならさいしょからやらないほうがましだ。
 ここには、無限大の自由なる結論は皆無である。

 都市もしかりであって、
ことごとく「意識」のなかに組み込まれてしまっているのだ。

 すべては因果という意識が都市を形成している。それもぎっしりと。
そこには、自然とか自由とか、このさき何が起こるかわからない、
という危機感は、とっくに排除されてしまっている。


 子どもというものは自然である。


 このさき、その子がどう行動するのかわからない。
因果がないのである。

 それが子どもというものだ。

 意識化に組み込まれた都会において、自然の申し子である子どもが、
のびのびと育つのには、無理があるというものではないだろうか。


 と、そんなことをおもいながら、傘をさして
6分の道のりを自宅に急ぐのであった。