今夜は、星野(仮名)さん母子が来店した。
響子(仮名)とはじめてあったのが小学生だったが、
もう立派な成人、大学院までいって仕事をちゃんとしている。
ながいつきあいだ。ながいつきあいなのだが、
その肝心の星野さんだけは他界しているから、もう会えない。
「海にもぐってたよね、星野さん」
「そう、あわびとか、こんな大きいのもって帰ってきたわよ」
と、ビールを飲みながら奥さん。
「え、あわびですか」
「そうよ、素潜りでとってくるのよ」
「え、あわびですか」って驚いているのは、パートの紫陽花さん。
「あの海仲間、ほとんど死んでしまってますね」
と、わたしが言うと、
「そーね、みんないなくなったわね」
アメリカのでかい車に乗り込んで、4人で千葉や伊豆の海にいって、
サザエとかあわびとか、黒鯛、石鯛などを
熊手でほじくったり、槍でつついたり、そんな仲間がいたことを、
星野さんはよくわたしに話してくれた。
地元の漁業組合のひととはしょっちゅういざこざがあったことも。
べつに、放流しているもの以外は、だれが獲ってもかまわないらしいが、
漁業組合の漁師たちはそれがおもしろくないらしく、
警察ざたになることもしばしば。
が、星野さんたちもつわものだから、
警官に「よく来てくれました、このひとたちがからむんです」とか、
そんなことを言って、警官を困らせた。
星野さんは、また、横浜、川崎の市街地で
猟銃で、鴨や野バトを撃って食べていたのだ。
もちろん許可証もあるから、違法ではない。
そのしとめた鳥は、家で毛をむしり、しばらく逆さにつるして食する。
その胸の肉は、プロイラーの鶏しかしらないわれわれには、
想像もつかないほど美味らしい。
そんなことも話してくれた。
そういうむかし話をわたしと奥さんとでしている間中、
紫陽花さんは、え~とか、わぁ~とか、驚きながら聞いていた。
とにかく、かれは、自給自足の権化のようなひとだった。
釣りが好きで、ついにはじぶんで竹竿をつくりはじめた。
わたしも何本か、星野謹製の釣竿をもっている。
もちろん、有料である。
響子は、そういうわれわれの話にちゃんと便乗して割り込んでくる。
「こんど、釣りに行ったら、うちにもってきていいからね」
とか、なんとなまいきな。
「おまえさ、ともだちいるの」
と、わたしはそんなことを訊いてしまった。
「いますよ、あなたとはちがいますから」
とか、またこじゃれたことを言う。
「でも」
「なに」
「ともだちいるのって、それってずいぶん失礼なんじゃないですか。
わたし、この一年で、いちばんひどいことを言われた気がする」
「あ、そーですか、それはそれは」
わたしもテキトーにうながす。
星野母子が来店するとにぎやかになる。
しかし、それは、それで、なにかが浄化されたような気にもなるのだ。
星野さんは56歳という若さで死んだが、
われわれのなかでは、いまでも生きているのである。