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コンプレックス

 コンプレックス、劣等感をもたないひとはいない、とおもう。

劣等感からやさしさが生まれたりもしているし、

劣等感が、ぎゃくに争いをおこしていたりもする。

すこぶるやっかいな代物、人生の消費税みたいなものだ。

 

 ところで、日本人の文字、言語へのコンプレックスはすくなくとも三つある。

一つは、活字コンプレックス。

活字になると信じてしまうというわるいクセがある。

辞書など、だれしもその説明を疑ったひとはいないとおもうが、

けっこう、えーっと言いたくなるものもある。

とくに、三省堂の新明解シリーズの国語辞典や

古語辞典はいかがわしい。 

 

むかし、それを薦めていた先生も、書店もあったが、

「辞書は三省堂」という、

三省堂のキャッチフレーズにまんまとだまされた結果であろう。

三時のおやつは、といって国民全員が、

文明堂のおかしを食べているのとおんなじくらい

滑稽なことである。ま、辞書についての言及は

べつの稿にゆずるとするが、活字に対する劣等感は、

立入禁止の看板も手書きのものと

活字のものとはおのず効果に差がでるとおもうが、いかが。

 

一つは、外国語へのコンプレックス。

英語だとカッコいいとおもってしまう。

JRってなんだい。JAってなんだい。UFJ銀行ってなんだい。

いいんだよ、太陽神戸銀行で、横浜銀行で。

大阪栄屋でいいんだよ、わざわざ縮めて、ダイエーにしなくて。

あ、ダイエーは外国語ではないか。社名から、

さいきんは、ひとの名まで英語っぽいのが多い。

 

森鴎外のむすめ、茉莉は、

ドイツでも通用するような響きを採用したのだが、

そして、明治時代に、茉莉という字はおしゃれ過ぎるくらいだが、

あの鴎外先生もすこぶる劣等感の強い方で、

むすめの名前もさることながら、

なにしろ、本名が、林太郎なので、

この名がいやでたまらなかった。

森に林、ひなびたイメージが払拭できないのだ。

さいきん、ある奥さんが森林太郎を、

シンリンタローと読んでいたのにはちょと吹いてしまったが、

舞姫の作者は、墓碑に、わたしは森林太郎として死にたい、

とそのようなことを書かれていたが、

それが、コンプレックスの裏返しの言であることは

自明のことである。医者かつ小説家のインテリは、

近所の農家のひとが、森先生に名付け親になってもらうだぁ、

と喜び勇んで門を叩けば、

じぶんのむすめの命名のエネルギーは

他人には微塵も使わず、田子作、とか、

与作、とかつけたらしい。これは余談。

 

 もう一つは、漢字に対するコンプレックス。

これだ。元来、日本人は文字を持っていなかったので、

げんざいも中国の文字を拝借しているわけで、

もちろん、ひらがなだって、もとをただせば漢字なのだから、

われわれはさっぱり文字というものを

ゼロからは生み出してはいないのだ。

(ことばありましたよ、やまとことば、うつくしい、とか、きれいだ、あれです)

 

 だから、漢字はあくまでも外国語の感覚が残るので、

漢字にするとカッコいいとおもいこんでしまうひとが多い。

またを「又」、ことを「事」など書いているひとは

かなり重傷で、生徒の論文などにこういった

意味のない漢字がごっそりあるのは、

コンプレックスの結晶みたいなものなのである。

とくに、熟語となると、

それはまったくの外来語なので、

よけいに重量感のあるいかめしさと

カッコよさを生むような錯覚におちいってしまうのである。

が、熟語はあくまで中国産なのでわれわれの

DNAレベルには響いてこないのである。

それはとりもなおさず、脳の理性の部分が作動して、

熟語のもつ意味内容と似たものを代行、

すり替えて理解しているのである。

たとえば、感動した、なんて一国の総裁が使ってしまうから、

いま、平気で国民的な支持を持ってしまったが、

感動などというのは日本人にはほんらい体では感じられない

心的作用なのである。

わたしは、ある小学校の校長の文章で、

感動した、感動したとのべつお書きになっているのを拝見して、

ほんとにそーかい、といつも疑ってしまうのだ、

なんか上っ滑りの表現に見えてしかたない。

だいたい、あなたは子どものころから、

感動したなんてこと、書いたり言ったりしていたかい、

むかしは使わなかったんじゃないの、そう言いたくなるのだ。

やはり、日本人なら、和語、やまとことばを使うべきではないだろうか。

 

 閑かさや岩にしみいる蝉のこゑ

 荒海や佐渡に横たふ天の川

 

たった十七文字の世界に、

宇宙規模のひろがりをみせる句の世界、

見れば、やまとことばばかりであう。

(「佐渡」は漢語です、あしからず)ようするに、

日本語は、やまとことばに、ひどく力があって

日本人のDNAの門戸を開く鍵を有していることを

われわれが自覚しなくてはならないのだ、ということである。

 

 コンプレックスは、それを自覚、

理解さえすれば、ぎゃくにわれわれの美点を

みつけだすリトマス試験紙となるのである。

おのれを知れ、けっきょく、そういうことなのだ。