イギリスの作家、B・ストーカーの小説、
ドラキュラ伯爵の吸血鬼、
世界のおばけの三本指くらいにはいるだろう。
何度も映画化されたので、
子どものころは、
しばらく夜がほんとうに怖かったし、
ニンニクとか十字架とかはやはり家の窓に
つるしておかいたほうがいいんじゃないか、
などと真剣におもったものだ。
わたしの子ども時代は、
いまよりもずっとアニミズム的信仰が残っていて、
夜というものには不可思議な時間と空間が浮遊していた。
おそらくは、平安や奈良時代からエンエンひきずる空気が、
あの重々しさをかもしだしていたのではないか。
とくに正月三が日などにそれが実感できた。
どの店も閉まっている商店街はひっそりとし、
家の食卓にならべられたおせちを見ながら、
さあ、これから三日間、これを食べつないで
生き延びねばならないぞ、
なんて子どもごころにも、
文字通り腹を決めたものだ。
そのころの夜は、いまみたいにコンビニが
きらきら明かりをつけて、
あるいは弁当屋が二十四時間休まずコロッケを売って、
そこいらじゅう寝静まることのない喧噪さで、
ドラキュラも鬼太郎も怪物くんもおちおち
歩けなくなってしまった昨今とちがい、
夜は人間が踏み込めない霊道のようなものが
開いていたようにおもえてならなかった。
そんな深遠な夜の縁から、
ドラキュラ伯爵がわが家めがけて
よじ登ってくるなど考えたら、怖くて眠れないのも当然だ。
ま、ゆっくり落ち着いて考えれば、
ドラキュラが人間の血を欲するのは、
なかまを増やすためであり、
つまり種族保存の悲しい営みであると、
こちらも寛容になれば、あんなのが家に来ても、
すこしは同情もできるが、
どうしたって一方的な被害者意識は拭いきれないし、やっぱり怖いや。
しかしながら、ドラキュラだって、
ひとを怖がらせるのが本来的な商売ではないはずなので、
じぶんの悲しい運命を自覚もするし、
自己嫌悪におちいることもままあるはずなのである。
誰だって好かれたいとおもうのが人情で、
種族保存の本能とおなじくらいのエネルギーで
じぶんのことをお目当ての相手のこころに
どうしても残しておきたいという、
肉体精神ともどもの保存の希求が作動していたのにちがいない。
だから、さいしょは、
人間との共存の道を考えたはずだ、
が、人間が吸血鬼をダカツのように嫌うので、
しかたなしにしだいに、
吸血鬼の自己顕示欲、保存欲は、
マイナス方向に動きだし、他者がじぶんを
恐れこわがることによって、
じぶんの存在を示そうとするようになる。
好意のうらがえしなのである。
ドラキュラを怖がることによって、
ドラキュラはそのひとのこころのなかで、
未来永劫生き続けることになるのである。
これとおんなじ心理が、
現代のストーカーなのである。
ドラキュラもストーカーもじつはおんなじ物差しにくくれたのだ。
ただ、ドラキュラは無言電話や
そのひとの捨てたゴミをあさったりしない。
なにしろ伯爵だから紳士なのだ。
ところで、ドラキュラの生みの親、
B・ストーカーと現代のストーカーと、
くしくも名前がおんなじなのも、
前世の因縁かもしれない。