内山節という哲学者が言うには
いまは不幸ですか、といえば
そうではない、と言う。では、幸せですか、
といえば、いや、そうでもないと言う。
たしか、こんなことをおっしゃっていたとおもう。
たしかに、満腔の自信をもって幸せです、
と言えるひとはひどくすくないのではないだろうか。
なぜ、このように時代になってしまったのだろう。
ひとは、安心・快適・便利さの追求によって
文明を発展させてきた、が、その文明は
ひとを「動かない動物」にさせてしまった。
あまりに便利すぎる世の中というのは、
みずから動かなくてもよいのだ。
戦争体験したいなら、スマホで「戦争」と打てば
リアルタイムの戦地が映し出される。
ナイアガラの滝と調べれば、
それなりのスケールの大自然の滝が画面に現れる。
こうやってひとは、どんどん
ニンゲンが一歩ずつ実地で歩まねば到達できない
場所に、いとも簡単にググッて「はい」となってしまった。
人類を反映させてきた要因は「好奇心」だという。
なぜ、アフリカから出てきたのか、
なせ、森から脱出したのか、
それは、不便な空間からの開放、好奇心の作動によるものであった。
が、しかし、いまの世の中は、
そんな好奇心を持たなくても、スマホひとつで
事が片付いてしまう。
だから、いまの若者に「夢」はほとんどない。
趣味もない。
いらないのだ。快適、便利さ、つまり文明はついに
「夢」も「趣味」もうばっていった。
それって、ニンゲンがダメになってゆく
道筋ではないか。
たしかに、産業革命以来、たくさんの機械が誕生し、
たくさんのシステムがうまれ、
多くの夢や希望をいだいた時代もあったろう。
が、高度文明の極北は、けっきょくひとの
堕落、劣化という事態をうんでしまった。
わたしたちは、
すこぶる乗り心地のよい乗り物に乗って、
急坂を、ものすごい速度で、それもブレーキの利かない
乗り物で下って行っているのではないだろうか。
この乗り物はいっさい止まることをせず、
奈落の底という終着駅まで下ってゆくのだろう。
歩きスマホのサラリーマン、あの姿こそ、
アノミーな世の中の象徴なのである。
そして、ここが急所なのだが、
その滅亡に向かってゆくことを
無意識ではなんとなく理解しながらも、
それに、まったく気づかないようにひとは生きる
ことができるのである。
ニンゲンは、具合の悪いことは
本能的に気づかないように生きることができる
生き物なのだ。
それを認知的斉合性とよぶ。
見たくないものはみない、知りたくないものは
知らないふりをする。
そして、もう、止めらないない乗り物に乗りながら
崖下まで落ちてゆく。
そういうわれわれは、
不幸ですか、と聞かれれば「いや、不幸ではない」
じゃ、幸せですかと聞かれれば「うーん、幸せでもないかな」
と、答えているのである。