けっきょくあたりまえのことを言うことになる。
四条天皇という帝がいた。
たぶんだれも知らないだろう。十三世紀のころ、
父の後堀河天皇の崩御によって天皇になった。
記録によれば二歳の天皇である。
年端もゆかない二歳、いまの世のPTA会長で
すらなかなか決まらないとはいえ、
政治の要、ほかにいなかったのだろうか。
まつりごとに関しては祖父の藤原道家というひとが牛耳っていたようだが。
『増鏡』という歴史物語には、
この天皇のくだりがあり、在位十一年目、仁治三年
(一二四二)は、「正月の五日より、内の上、例ならぬ御事にて」
ではじまり、九日の早朝、天皇がご病気で
崩御されたと報じている。在位十一年目といっても、
まだ、十二歳、小学校の六年生くらい。いまなら、
たて笛を吹きながら帰宅するくらいの年齢だ。
このご病気がふるっていて、
女房たちや近習の人を転ばして笑わせようと、
宮中の広御所(ひろごしょ)に石鹸のような粉を
塗りつけていたのだが、ご自分があやまってひっくり返り、
頭を強打したものらしい。このへんの事情は
『五代帝王物語』にくわしいのだが、
ようするに、子どものいたずらっていうやつだ。
脳挫傷による脳死であったのである。
歴史物語は、このような突飛な出来事を
羅列しているのであり、『増鏡』の言うところの
「例ならぬ御事」なのであった。
「例ならぬ御事」とは、つまりは、
非日常性、ということである。
言ってみれば歴史物語という性質は
「非日常性の連続」なのである。
事故、地震、火事、強盗、政変、崩御、
世の中に平穏無事という日は皆無で、どこかでなにかしらの非日常が起きている。
で、ここが、急所の部分になるのだが、
非日常と日常を対立的にとらえる、
という発想が問題解決のいとぐちとなることもままあるのである。
『徒然草』に、荒れている宿にひとり女主人が
ひっそり数名の女房をしたがえて住んでいるところ、
ある高貴な男性が見舞いがてら訪問するという
くだりがあるが、男が門にたどりつくと、
犬がけたたましく吠えるのである。
東京女子大の入試問題は、ここに傍線が引かれ、
「犬のことことしくとがむれば」とは、
どのようなことを意味しているか、
という漠然とした投げかけ方を受験生にしたのだが、
ここに、日常と非日常のものさしをあてがってみると、
この宿の日常性は、荒れている宿、非日常性は、
男の来訪、なのだから、犬は非日常性に対し
威嚇行動に出たのであり、よって、
犬が吠えたのは、この宿には、
ふだんは人がほとんど訪れないという
事情をあらわしていたのである、
とあいまいな問いかけにもしっかりとした答えを
用意することができるのである。
ま、これは受験古文の要領なのであるけれど。
ここで憂うるべきこととは、じつは、
現代に生きるわれわれはこの日常と非日常という
対立項に無関心、あるいは麻痺をしているということである。
日常性のなかに息づく非日常が、
たとえば詩に、たとえば短歌や俳句、
小説として成立するわけで、
林檎が林檎でなくなるくらいものを見つめることこそが、
非日常性への意識の入り口になっているのだが、
そんなのは文学者にまかせておけばいいけれど、
ふだんの生活において、
もっと切実にこの対立項を意識しておかないと、
のちのちにモラルハザードに歯止めがかけられなくなり、
つまりはとりかえしのつかない廃墟が、
町や職場や家庭に訪れることになるだろう。
現代の非日常性をかんたんにかいま見られるのは
新聞なのであるが、新聞は現代の歴史物語であり、
「非日常性の連続」なのである。であるにも関わらず、
新聞に書かれていることが世の中の風潮とか、
現実の姿見、投影図であるとおもいこむと、
その出来事自体が、おおいなる誤解をはらんだまま、
認知された社会現象としてひとり歩きしてしまうのだ。
小、中学生の殺人、窃盗。公金横領、
横流し、強盗、賄賂、政治腐敗、業者との癒着、
強姦、痴漢、などなど、すべては非日常なのだ。
だから、かんたんに言えば、
日常生活における非日常をまねするな、と言うことだ。
非日常が日常化されたとき、
日本という統治国家の終焉がくる。
けっきょくあたりまえのことを言うことになった。