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父の声

息子が朝、わたしに向かって言ったのだ。

「お父さん、なんでぼくの部屋にはいるんだよ」

唐突な質問だ。

「え、おまえの部屋にここ半年くらい入っていないぞ」

 息子の部屋はわたしのおふるを譲りわたしたもので、

40年前のわたしの勉強部屋だったところだ。

わたしの高校時代は、勉強とは隠れキリシタンに

おける曹洞宗みたいなもので、けっしてしたことがなかった、

いや、してはいけないものだったから、

勉強部屋と呼ぶのにはためらいがあるが、

すくなくとも、そこはたばこと音楽でデカダンに

充満した空間であった。まだ、壁に禁煙という札が貼ってある。

そのころのわたしの荷物もたっぷり収納されていて、

押入には、ヤングフォークとか新譜ジャーナルなどの雑誌、

「吉田拓郎ソングブック」や「泉谷しげると歌おう」などの本、

森田童子やかぐや姫、古井戸のレコードなど、

ぎっしり埋まっている。エアコンなんか、

岡崎ゆきが宣伝していたサンヨーの「ひえひえ」という窓に

据えつけるタイプで、いまもしっかり稼働している。

だから、わたしの部屋、いまの息子の部屋には、

親子二代の歴史が刻まれており、

わたしには時間の静止している空間となっているのである。

「だって、夜中に、ぼくと目があったら、

お父さん、『おう』と言って出ていったじゃないか」

 そのことばを聞いていた、わたしと妻は異口同音に反応した。

「おじいちゃんだ」

 わたしの父は、そんなに癖のあるひとではなかったが、

よく「おう」と返事をしていたから、

息子の部屋の侵入者はまちがいなく、

おじぃちゃん、わたしの父であることが妻とわたしには了解できたのだ。

「おじいちゃんが来たんだよ」

「え、ほんと」

 息子は、さほどびっくりもせずわたしの

回答をあっさり受け入れたようだ。

 

 わたしの父は二日前に亡くなっているのだ。

たぶん、亡くなっても息子のことが心配でようすを見に来たにちがいない。

 そのつぎの日もじつは父は家にいて、

夜中の一二時三〇分ごろ、窓の外からむすめの名を呼んでいるのだ。

「菜々子ぉ、菜々子ぉ」

この声に反応したのは長女の由衣と菜々子のふたりだった。

「お姉ちゃま、なんだろね、わたしを呼んでいるよ」

と、寝室の三階の窓から下の通りをのぞいたという。

とてもしっかりとした大きな声でちゃんと

聞いたとあとからもふたりは証言している。

その日の、一二時三〇分ごろは、

ちょうど、わたしは一階で、パソコンをいじっていたのだが、

わたしはこの呼び声をまったく聞いていないので、

たぶん、父は三階の窓の外から、あるいは、

この世とちがう世界の淵から身を乗り出して

呼びかけてきたんじゃないかとおもうのだ。

ただし、むすめふたりは、その声が死んだおじいちゃんの

声であるとはいまだに信じていないようだが、

夜中に窓の外から声をかけて、一階にいる父親に聞こえないように、

むすめふたりを窓まで呼び寄せることができるのは

人間の領域を超えているとしかおもえない。

父が亡くなった数日のあいだに、

父は、わたしの子どもたち三人に何かしらのかたちで

接したのだろうと、わたしはおもうのだが、

この一連の不思議な現象に共通しているのは、

だれひとり怖がっていないということなのだ。

つまり、身内の霊が家に浮遊しようが、

寝床にあらわれようが、

恐怖心はまったくないものなのだ、

ということをわたしたちは実地で経験したのである。

 すでに、父の三周忌も去年おわり、

このはなしはずいぶん昔のことになってしまった。

 

 このところ、インフルエンザや重度の風邪で

体調がかんばしくなかったが、

そろそろ元気をとりもどしてきたので、

ひさしぶりに、先週の金曜日、夜釣りにでかけた。

 

 夜の防波堤は風が強く、さすがにまだじゅうぶん

冬の冷気を帯びているせいか、釣り人はわたしと

同行した星野さんのふたりしかいない。

この防波堤は、三〇〇メートルくらい直線でつづく、

ひどく細長い造りで、幅が三メートルくらいしかない。

手すりも壁もなく、右も左も海である。

真下をのぞくと五メートルくらい下に墨色の海がうねっている。

うしろから、どんと突かれればまっさかさまに

海になげだされてしまうじつに危険な場所である。

だから、もちろん立ち入り禁止地区で、

この漁場にくるためには、高いフェンスを乗り越え、

はしごで五メートルくらい塀を降り、

約一メートル幅のコンクリートの通路、

これもまわりは海、を一〇分くらいかけて歩き、

ようやくたどりつける辺境の地なのだ。

 この日も、星野さんとこのひょろながい

強風の寒い場所で六時間くらい震えながら

大物をねらっていたのだが、

星野さんがずいぶん向こうのほうから

わたしのところに歩み寄ってきた。

「ふたさん、だいじょうかい」

「え。なにがですか。平気ですけど」

「海にでも落ちたんじゃないかと

おもってね、心配して海を見てたんですよ」

「だいじょうぶですよ、でも、どうしてですか」

 

「いや、さっきね、ふたさんの声で『おう』って聞こえたからさ」