言語にならない声、というのがある。
ターザンが蔦につかまって叫ぶ奇声とか、
さんざん痛めつけられて出すうめき声とか、
剣道の気合いとか、ジェットコースターやマジックハウスのなかでの悲鳴とか、
風呂にはいったときにおもわず出るため息など、
言語としては認められていないが、
人間が発する信号がある。
これは、動物として本能的に出てくるもので、
すくなくとも同種族に対するコミュニケートの意味合いが含まれているのだとおもう。
辻斬りにバサリとやられて、
おもわず、うっ、と、声を漏らすのも、
じつはDNAレベルで、本能的にじぶんの危機を伝達しようと
しているとかんがえれば、コミュニケートの
機能は失われていないはずだ。風呂で唸るのも、
じぶんの示威行為のあらわれなのかもしれない。
だから、辞書に乗らない、言語にならない声や音というものを羅列、
分析して、そこに潜在的に底流する意味合いを研究するのは、
生物学的にも、言語学的にも、心理学的にもじつに興味ふかいところだ。
この学問体系は、文理の枠を超えて探査研究しないと
その急所にはたどり着けないだろうから、
総合的なプロジェクトを編成しなくてはならないだろう。
と、わたしは、はなしを高度にする気はなくて、
どうしても気になるのが、人前での伝達事項のさいに、
そのパネラー、発話者から出される、「えー」とか「あー」という
大平首相のような音声である。あの「えー」とか「うー」には
テクニカルタームがあるのだろうか、よく、あのひとは、
「あー」とか「うー」が多いね、なんて話題に出るから、
やはり、あの「あー」とか「うー」の正式名称は、
「『あー』とか『うー』」なのだろう。それでは紛らわしいから、
仮称で「無意識的オノマトペ」とでも呼ぶことにする。
では、この無意識的オノマトペは、いなかるときに
発せられるかといえば、発話者の、文節単位の頭や発言の切れ目などである。
もうすこし言えば、発話者が日常の会話、おしゃべりで、
無意識的オノマトペを多用することはまず例をみないことを
かんがえれば、無意識的オノマトペは、
話し手と聞き手という位置関係が明確になったばあいの、
話し手に現れるということになる。かんたんに言えば、
じぶんが他者に、一方的なベクトルで伝達するばあいにのみ、
無意識的オノマトペが発せられるのだ。
つまり、話者はその時間を、他者と共有するとともに、
話者じしんの独占的な時間を所有しているのである。
それも、無意識的オノマトペには、伝達内容が皆無だから、
「あー」とか「うー」と言っているあいだ、
われわれは、まったく無意味な時間を共有せざるを得なく、
もっと深刻なのは、この無意識的オノマトペを発することじたい、
能動受動の位置関係を話し手が自己確認している現場で
もあったということなのであった。自己確認というのは、
自己愛とほぼ同意であるので、無意識的オノマトペは、
じぶんの位置関係をじぶんで確認し、かつ、まさしくわれに陶酔する
一瞬であり、その一瞬こそ、ナルシスの水仙の花はおおきく開き、
換言すれば、すね毛男が、わたしってきれいといって、
姿見で風呂あがりのじぶんにみとれている光景であり、
とどのつまりはその光景に横でおつきあいするくらいの
苦痛だけがわれわれには提供されるのである。
だいたい、無意識的オノマトペを発するときの話者の顔は、
眉にしわがより、ちょっと歪んでいたりするのは、
こうした事情によるものなのであった。
ということは、本能的コミュニケートというレベルの
見地からみれば、無意識的オノマトペは、
まったく不要である、といえるだろう。
われわれには不快感しか残らないし。
わたしも職業がら、ひとまえで話したり、
説明したりしなくてはならないばあいが多いのだが、
わたしは、「あー」とか「うー」をけっして言わない。
言わないと言うより、言わないように努力した。
いちいち、脳に命令していると、一時間がひどく長く、
たいそうな負担がかかるものだが、おかげで、いま九〇分でも
一二〇分でも、三〇〇人の前でのあいさつにも、
無意識的オノマトペを言わなくてすむようになった。
これも訓練と慣れと、相手への礼儀だろう、とわたしはおもう。
返事のお手本は、「はい」である。
これも言語にならない声であるが、
「はい」は過去に研究があったはずで、
うろおぼえで申し訳ないが、たしか「はい」は神への崇拝を音声化、
具体化したものらしい。その神聖なるものへの敬意を表した音だからこそ、
返事をするばあいの最適、最良の表現となっているのである。
それゆえ、受け手も心地よくひびいているはずだ。
が、さいきんは、携帯電話での別れ際によく使用されている。
それも、数回、長音をまじえながら、
相手との音信を絶っている。「はーい。はーい。はーい」と言って切るのである。
じつに気になる。
あれは携帯電話の普及とともにあらわれた音声であるのだが、
あの発生には、携帯電話の機能上の問題と密接にかかわっているのだ。
それは通話を遮断するばあい、
だれしもいちど携帯電話を耳からはずし、
OFFスイッチを目で確認してでないと、
通話をやめられない。家の電話なら、
しずかに受話器を置くだけで、ふたりの会話は最終章の
エピローグを迎えることができ、
つまり自己完結できたのだが、携帯はそうはゆかない。
終わり方に不安定さがあるのだ。
その不安定さと相手への思いやりとの解消方法、
自己完結を模索した結果が、
「はーい。はーい。はーい」なのだろう。
こちらの音声は、無意識的オノマトペとちがい、
相手、二人称へのおもいやりが、
神の崇拝をどこかに秘めて表出されているから、
不快感はまったくない。
が、男でも「はーい」と言って切るのはやはり気味悪い。