ユダヤ人がナチスドイツに抵抗する映画を観た。
地下組織を作って、何ヶ月も戦い続けるのだ。
一ヶ月でポーランドが降伏したのに、
レジスタンスはその何倍もの日数を戦い続けた。
映画は史実にもとづいており、
だから、レジスタンスがドイツを降伏させることはなく、
ラストシーンは、下水道をくぐって必死に脱出したところだったが、
終始、映画の中でうたわれていたことは、
この不条理の世の中で規律は守れるか、といった内容だった。
不条理はナチスドイツ、
規律はユダヤという二項対立はわかりやすい図式なので、
つまり、善と悪がはっきりわかれていたので、
判官びいきで手に汗にぎって観てしまった。
江戸時代の物語の挿し絵では、
善人には顔が描かれているが、
悪人には顔がなく、顔のところがまん丸になっていて、
その中に「悪」とひと文字書いてあるから、
悪玉と呼ばれた、なんて浅い知識をひけらかしてもしかたかないが、
善悪、白黒が明白にわかっているのなら、世の中、
こんなにシンプルで楽なことはない。
時代劇でも、さしこみで倒れている女性に、
なに、怪しいものではない、
というセリフが、善人の証拠の免罪符みたいな機能をするのも、
じつに単純、平板な世の中を映し出している。
ところで、さしこみって何だ、生理痛とはちがうのだろうか。
現代は、善人でもいつ悪人になるのかファジィで、
いっしゅんの心のすきで、犯罪者が成立してしまう。
自転車で帰宅とちゅうの若いサラリーマンが、
警邏巡査につかまり、職務質問された。
が、虫のいどころが悪かったか、
あるいは、自宅のマンションが目の前だったので気がゆるんだのか、
おれの家はここの四階で、
自転車にも名前がついているから、調べたければ勝手に調べろ。
と、怒鳴りながら警官の静止命令を無視して、
階段を上って行ったら、そのおまわりは、うしろをつけてくる。
なに、くっついてくるんだ、えい、うっとうしい。
とばかり、警官を振りきり、
家にもどるのをやめて、
彼はすぐ下の駐車場にあるマイカーに乗り込みその場から
去ろうとしたのだ。が、警官の尾行はつづき、
ついに車の前に仁王立ちになり、
車を止めようとした、そのとき、サラリーマンは警官を振りきろうと、
アクセルをふかして威嚇したのだ。と、警官は、待て、
とばかり車のボンネットに飛び乗り静止させようとした。
サラリーマンはついにアクセルを踏んだ。
つまり、巡査はボンネットに乗りながら、
そのまま公道を走らされる運命になってしまったのだ。
「太陽にほえろ」のノンフィクション版だ。
だが、「太陽にほえろ」とのちがいは、
このドライバーが公務執行妨害で緊急逮捕されたことだった。
ただの自転車で帰宅とちゅうの日常、
つまり善が、大捕物、つまり悪になってしまった瞬間だった。
悪も悪、最悪である。この若いサラリーマンの判決は、
一年六ヶ月、執行猶予三年の実刑だったから、
会社も解雇だろうし、前科一犯はぬぐえないし、
次の会社面接では、履歴書の賞罰のところに
公務執行妨害にて前科一犯、と書かなくてはならない、
文字通り、お先真っ暗である。
善悪は、ほんのひとつまみのさじ加減で
がらり変わってしまうものなのだ。
そんな世の中で、われわれが判断をしなくてはならないことは、
現状がはたして、善なのか、悪なのか、
そのグラデーションのどのへんの色なのか、
それを、見極めることである。
たとえば、早朝七時三〇分に鴨居の駅で
バスの交通整理をたのまれ、そのあと、教室に行って
ショートホームルームをし、一時間目、二時間目と授業をこなし、
そして一一時五〇分に、ゆえ合って早退をした
教員がいたとして、一二時三〇分以内の早退は欠勤とみなす、
そこの内規を大上段にふりかざし、
欠勤のゴム印を非情に押せる人間がいたとする。
おなじ人間、それも同僚の、タイムカードにゴム印を押すさい、
その手先が震えはしなかったかい、わたしは訊きたくなる。
善か悪か、あるいはどちらかの色にどれだけ傾いているか、
見極めが必要だ。だれでも、悪にかたむくことがあることは認めよう。
でも、その状況をいつまでも続けさせているのは、
まわりの人間の責任だ。軍配を悪にあげるとしよう、
そして、もし、じぶんの軍配に自信があったらすべきことはかんたんだ。
抵抗である。