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動物の映像

 動物たちの映像が一週間のテレビ番組の

なかでどのくらい流れるのだろうか。

とくに、ライオンでもチータでも、

子どものじゃれあいはほほえましい。

 わたしがつねづね提唱してきた

「ていうか症候群」はこのじゃれあいの欠如に由来するところが大きい。

 

 母親の背中に耳をあてがうと、

胎児が聞く母親の胎内の音に近似した音が聞こえてくるという。

だからおんぶという行為は子どもに安心を与えるらしいのだ。

たしか、アフリカかどこかの国では、

子どもをあやすときにゆりかごで揺らしながら

壊れた箒みたいなものを子どもの上で振り回すのだ。

その音が胎内の音に似ているのだという。

 文明と便利とがほとんど同意であった

時代は二〇世紀で終了している。

それが証拠に、さいきん文明ということばは歴史上の

、たとえば黄河文明とか、インカ文明とか、

いわゆるテクニカルタームでしか存在しなくなっているし、

また、便利なものへの追及は、

デザインという外装の追及に変わり、

無印良品にせよ、フラン・フランにせよ、

パッケージデザインの瀟洒なものが陳列されている。

つまり、われわれはこれ以上の高度文明と

便利さを求めていないのだ。月に行こうとも、

車で空を飛ぼうとも、海底で暮らそうとも、

だれしもおもわないだろう。

 

人間には限界があって、

おびただしい情報が提示されバーチャルに

疑似体験ができようが、北海道の日本一おいしい焼き鳥も、

世界一大きく雄大なナイアガラの滝も、

火星のクレーターも、知識では理解があっても、

じっさいには実地の体験はまずしないのだ。

実地の体験は、近所の赤提灯で焼酎を飲み、

等々力渓谷を散歩し、ひつじ公園の砂場で

子どもを遊ばせるといった、ごく身近なほとんど

コンパスでぐるりと円を描いたくらいの範囲で

生活するだけなのだ。ようするに、

そろそろ、人間の体力的限界に気づきはじめて、

マルチメディア時代のつぎの段階を考えておかないと、

かならず世の中の歪みに対処しきれず

右往左往することになるということなのである。

もっといえば、二一世紀の人間にいま求められていることは、

個々の持っている動物的本能をDNAレベルから

ひきずり出す作業なのであり、けっして他からの簡便さではないのである。

 母親が、ベビーカーで赤ん坊を押すこと、

あれは新生児にはよくないようで、

だいいち外界の刺激が直接新生児に与えられ、

たとえれば新幹線の流線型の先頭に

ガムテープで貼りつけにされ新大阪まで走らされる

くらいの恐怖感があるのだから、

ベビーカーは排除して、

母親はしっかりとおんぶするか、胸に抱きかかえるべきなのだ。

教員が、体罰という呪縛的語彙にがんじがらめになり、

子どもに与えなくてはならないスキンシップが

ほとんど不可能な状態のなかで情操教育をめざしている。

竿をもたない太公望みたいなものだ。

そもそも情操教育じたいがはたして必要なのか、

という議論もさることながら、このへんの事情をあいまいにして、

こんどは、ゆとり教育がはじまった。いまの教育の構図とは、

情操教育とゆとり教育との塩汁鍋みたいななかで、

ぽつんとだれにも触られたことのない子どもたちが

たたずんでいるのである。そういう子どもは、

外部から叱責されたり、注意をうながされたりしてこなかったから、

怒られる、注意される、という「れる・られる」を使った

受身の構文に弱いのだ。

「おまえ、髪、染めたろう」

「染めてません」

「だって、こんなに茶色いぞ、ほんとは染めたんだろ」

「染めてません」

「じゃ、なぜ茶色なんだ」

「黒染めが落ちたんです」

「じゃ、なぜ黒染めをしたんだ」

「茶色く染めたからです」

 叱られることにひどく苦手な青少年は、

観念することはしない。無理を承知で逃げまくるのだ。

これが、スキンシップを、

地中海にさんさんとふりそそぐ太陽のめぐみを受けた

芳醇なぶどう畑のように与えられてはこなかった

結末なのである。内戦のはげしい国の

溝壑(こうがく)に咲くタンポポみたいな荒廃が

子どものこころをむしばんでいるかもしれない。

 スキンシップを放棄した母性本能も、

出生率が一、四まで落ち込むという、

いわゆる種族保存の本能も、

あらゆる本能が欠落しかけている世の中では、

動物のじゃれあいを模倣して、老若男女、

子どもも大人もどこに集まって、

叩くの触るの撫でるの囓るの、

そんなことでもしてみたらいかが。その絵図が、無政府的ならそれもまたよし。

 国の安定は、国民の精神の安定から

はじまるという図式は、古代中国の思想家も

とっくに言及していることだから、

無秩序的所作が国の安定を助長できたのなら、

それこそ、これをパラドクスと呼ぶのだろう。

 

 動物の映像は、われわれに自然回帰を

うながしているのかもしれない