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補助動詞

 吾が輩は猫である。この「ある」はもともとは

「あり」という基本形をもつ。

人に歴史あり、の「あり」である。

歴史ありの「あり」は存在の意味をもっているが、

猫である、の「ある」にはその意がない。

 動詞には、ほんらいの意味をもたない補助動詞というものがある。

「やってみる」の「みる」、

これには「見る」の意味合いがない。

だから補助動詞である。「いつも君をおもっているよ」の

「いる」もそうである。

「いる」が本動詞の「居る」なら、

君をおもっていながら、居間でずっとあぐらでもかいていなくてはならなくなる。

 

 さいきん、ゆうがたに家でぼんやりすることが多くなり、

それが妻にはひどく苦痛のようだ。

どうもじゃまらしい。ちょっと昔のことばで言うなら、

わたしは家長である。家長なのだから、

この家の中央にふんぞりかえっていてもいいはずなのに、妻からは、

「まだ、いるの、下にじぶんの部屋があるんだから行けば」

 と、こんなことを言われる。

「なんだよ、おれがここにいたらいけないのかよ」

「そういうこと、まだいるの?」

 そもそも、わたしが家長であることを

家族に誇示することも、

再認識させることも、わたしはするつもりはないし、

したこともない。が、どうしても

納得ゆかないのは、なんでイニシアチブを

妻が取っているのか、

妻にしきられなくてはならないのか、という実状である。

それも亭主の居場所まで自由がきかず、

つまり、かんたんに言えば、出てゆけ、と

命令されているわけなのだ。これはひとえに、

わたしがダカツのように家族に嫌われているゆえのことであって、

短兵急にこういう事態になったわけではないんだろうから、

そのへんは過去をふりかえって軌道修正するなり、

もっとだいたんに次の結論をだすしかないんだろうと、

そうおもうのだ。

 朝、わたしが出勤するとき、わたしは当然ながら、

「行ってきます」とあいさつをして家を出るのだが、

この「行ってきます」は、

一方方向のベクトルしかもっておらず、

やまびこがはねかえってくるように返事がないのである。

妻はたしかに台所でむすめの弁当を作っているし、

わたしの地声の大きさは町内一だし、とうぜん、

わたしの「行ってきます」は妻の耳に届けられているはずなのだが、

わたしの「行ってきます」は、

まるで鵜戸神宮のかわらけ投げみたいに、

太平洋の海底に沈んでゆくのである。

 そこで、わたしははたと考えたのだ。

「行ってきます」とはいかなる意味なのだと。

この「きます」は「来ます」で「来る」の丁寧語だけれども、

はたして前述した補助動詞であるか否かである。

たとえば、ファミリーレストランで食事をして、

さあそろそろ出ますか、というばあい、

「さあ、行こう」とは言うが、「さあ、行って来よう」

とは言わないのである。ゆえに、

「行って来よう」の「来よう」にはちゃんと

意味があったのだ。

つまり、「来る」とは「戻ってくる」という意味が

しっかりトトロの住む大木のように息づいていたのである。

補助動詞ではなかったのだ。

「行ってきます」には「仕事には出てくるが、

しかしながら、わたしはちゃんと戻ってくるからな、

待っていろよ」という、ひどく厳かな意思表示が

しめされていたのだ。

つまり、帰宅する意志のベクトルが

こめられているのである。

帰宅する意志のベクトルは、

単なる記号として機能しているわけではない、

家族というひとがもっとも大切にしなくてはならない

社会における単位を言語的に保護しようとする

意味深長な機能が存在していたのである。

それは、まるで、土佐清水港から出航してゆく

遠洋漁業の船のうえから、

「かあちゃん、いっでぐるがらなー」と大声でさけぶ、

危険とうらはらな漁師たちの心からのさけびとおなじような、

一種呪術的な側面とドラマのもつ人情的な側面とを

具有する祈りのエネルギーが底流しているのだ。

 だから、「行ってきます」と声をかけたら、

家族が「行ってらっしゃい」と返事をする行為は、

義務を超越した神聖な行事とおもうべきなのだ。

呪術的神事として意識すべきなのだ。

 それなのに、わたしの「行ってきます」は

報われることなく葬られ、

精霊流しの船のように消えてゆく。

ま、家にもどってくることを家族から

期待されていないのだから、よく考えてみれば、

わたしが「行ってきます」と発することじたいに

大きな問題があったのだ、ということになろう。

なぜ、こんなかんたんな算数にもっとはやく

気がつかなかったのであろうか。

で、わたしは決めたのだ。

これからは、出勤するときは、こんな言い方にしようと。

 

「さようなら」