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シウマイ弁当

崎陽軒のシウマイ弁当を食べた。950円。

あれはバランスのいい弁当で、おかずといい、

幕の内弁当のようなごはんの乗り方といい、

間然するところがない。

 シウマイ弁当の食べ方というのは、

まず、ひもをはずし、黄色い紙をはがし、

ふたをとる。この弁当のふたをとるまでの行為から、

じつのところちょっとエロティシズムを

感じている男性もいるだろうとおもうのだが、

このへんの理論については別の日の宿題とする。

このとき、ふたの裏にごはんがついていることはないから、

その点を心配する人はいない。他店の弁当だと、

ふたの裏にごはんがこびりついている

可能性もあるので、とりあえず弁当を食べる前に、

絶壁に作られた岩ツバメの巣を取るように、

お米をごりごり削り落としてから弁当に

ありつくひともいるのである。ふたを開けたときにひろがる、

シウマイやタケノコや煮魚のかおり。

至福の瞬間である。食後の満足感よりも、

このときのほうが、より、すがすがしさがあるのはいうまでもない。

煙草の葉のかおりのほうが吸うけむりより

さわやであるのとおんなじように。

そして縦にならべられたシウマイ。

すこし列を乱しているのは運搬のときに

ずれたものだろう。そのシウマイに、

からしを、ビニールのはじっこをちぎって、

ひとつひとつのてっぺんに乗せはじめる。

ナイトキャップをつけられたシウマイは、

つぎに、陶器からプラスチックという、

駅弁のお茶とおんなじ運命をたどらされた

醤油の容器の、ふたをくるくるはずし、

そのさきっぽをぐさり、ナイトキャップの頭に刺し、

醤油をシウマイ内部ににじませる。

予防接種している子どもたちみたいだ。

 わたしは、いま、崎陽軒シウマイ弁当を

食べる寸前までのシミュレーションを

してみたのだが、この行動パターンとおんなじひとが

ひどく多いんではないだろうか。

もし、そうであるなら、

それは、われわれが、崎陽軒が提案した

このシウマイ弁当をなんの抵抗もなく

受け入れているということであり、

つまりは、崎陽軒のてのひらのなかで

まんまと言われるままの行動をとっている、

ということなのだ。

熟睡しているときに屋根が落ちてくるくらい、無抵抗である。

 が、ここが急所の部分だが、

シウマイはしだいに小振りになり、

数も減っているという事実なのである。

 この事情に関し、ささやかに嘆いている

ひとがいるかもしれないが、

しだいに量を減らしてきたこの弁当で、

それでも唯一クォンティティ、

クオリティともに変えていないのは、

かまぼこの薄さでも、煮たたけのこでも、

しょっからい煮魚でも、

まんなかでやけにめだっている杏でもなく、

ビニールのからしなのである。

からしだけはむかしのまんまなのだ。

だから、ひとつひとつのシウマイに昔と

おんなじようにからしを乗せるとからしが

すこしビニールの袋の中に残ってしまうのだ。

その残ったからしの量、これこそが崎陽軒の倹約した分量なのである。

 

 われわれが企業の提示したものを素直に受け入れること、

これも資本主義経済ではすこぶる重要な姿勢なのだが

、あまりにも無防備にこれを受諾していると、

治外法権をゆるした明治政府のような

醜態をさらすことになってしまうのだ。

 なんで、シャンプーとリンスを買わなくてはならないのか。

シャンプーにリンスが混入してもけっして

効果は変わらないとおもうのだ。

シャンプー・イン・リンスなるものもあるはあるが、

普及率はまだ低いのが悔やまれる。

シャンプーとリンスと二本買うほうが、はるかに不経済ではないか。

 なんで、シェーバーの替え刃はすぐ切れなくなるのだ。

シェーバーを研ぐ簡便な機械がないものか。

包丁研ぎ器があってシェーバー研ぎ器がないのは理不尽だ。

 なんで、うちの町の朝鮮食材屋が消費税を取っているのだ。

年間三〇〇〇万円の売り上げというと、

一日八万二〇〇〇円は売り上げなくてはならないんだぞ。

グラム八〇〇円の肉なら、毎日一〇二キロも売らなきゃならないわけだ。

一〇二キロ売るためには、ひとり五〇〇グラムずつ買うなら、

一日に二〇〇人が並ぶことになる。そんなわけないだろ。不条理だ。

洗えば何度でも使えるようになるマスクや生理用品、

伝染しないストッキング、ガソリンを入れないで走る車、

歯磨き粉のいらない歯ブラシ、壊れない電化製品、

考えればできそうなものなのに、なんで提案されないのか。

 ようするに、裁量権のない庶民がすべて

企業の言いなりになっているというシナリオを、

われわれはなんの疑問も持たずに、演じているのであった。

なんて、ちょっとくよくよしながらも、

もったいないからといって、

余っているからしを、

もういちどシウマイに均等に分配し

箸を割っているわたしがいるのである。