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禁煙

 煙草をやめて、かれこれ38年が経つ。

高校二年のデビューだから、いまでは遅いほうだろう。

友だちから田園調布の喫茶店で

一本もらったのがさいしょだ。

あのときは、力加減もわからず、

火をつけてからいっきに肺活量の検査みたいに吸ったものだから、

きゅうにラジオの試験放送が耳の奥から聞こえてきて、

その場にだらりと横になってしまった。くたばっちまったんだ。

 

 だいたい意志薄弱のわたしだから、

いちどはじめてしまえば、「たが」がはずれることは

よくわかっていた。じぶんのことはじぶんが

いちばんよく知っている、っていうやつだ。

で、この日から病みつきになった。

いや、ヤニつきになった。一日に平均二箱半、

五十本くらいは吸うようになってしまったのである。

わたしの高校は、生活指導が太平洋の真ん中くらいなんにも

なかったところで、始業式の会場で梶谷くんの

ばらまいてしまった煙草を先生たちがいっしょになって

一本一本拾ってくれるやさしい生活空間だった。

シンナーをあんパン、煙草はそれよりはからだにいいので、

ジャムパンと呼ばれ、ジャムパン求めて

男子生徒が他の教室を行き来するという

光景が日常見られた。当時は、ハイライトかセブンスターか

ショートホープしかなく、短時間で吸えるショートホープは

電車待ちには便利で、わたしは愛飲していた。

ギャンブラーの煙草らしいが、その由来は知らない。

 

大岡山駅で目蒲線を待っていたところ、

むこうから電車のライトが見える。

もったいないから、まだ、吸ったばかりの

ショートホープを顔が震えるくらい、

フィルターがむやみにあつくなるほどおもいきり吸い、

燃やされた煙のことごとくを胸のなかに押し込み、

そのことごとくを、こんどはキングコングが

息で美女をかわかすように、

ちょうどいまどたどり着いた電車のドアに吹きかけた。

わたしの口はびっくりした王選手のようになっていた。 

と、ドアの開いた入り口に、

数学の池本先生が立っておられたのだ。

こともあろうに、ことごとくの煙は

王選手からそっくりことごとく、

池本先生の顔に吹きかけられてしまったのだ。

が、しかし、なにしろ太平洋の生活指導だから、

わたしは池本先生に、あ、おはようございます、

と言って、電車に乗り込み、池本先生は、

ん、とひとことうなずかれただけだった。平和だった。

 池本先生には三年間お世話になったが、

三年の最後の追試をなさったのが間違いだったとおもう。

なにしろ、蒲田にひとりでブー麻雀をやりに行っているやつや、

ほとんど学校に来ないやつや、がらくたと

ならずものだけがごっそり集まってしまったのである。

地獄の梁山泊である。池本先生は、

カンダタみたいなやつらをひとつ部屋に入れて、

プリント一枚渡し、ごじしんは職員室に戻って行かれた。

もちろん、池本先生が置いておかれた

幾何学紋様のような藁半紙を見るものなどだれもいない。

と、麻雀が、おい煙草吸うか、と持ってきた

セブンスターをみんなに配った。

わたしは、ためらいもあったがはじめて教室という

学習空間の真ん中で煙草をくゆらせたのだ。

カンダタとその一味はみんな一服しはじめた。

教室はみるみるけむりが充満し、

わたしたちの汚れた青春が立ちこめていったのだ。目が痛い。

と、ひとりが、

おい先生戻ってくるぞ。

渡り廊下をそそくさと歩いてくる池本先生を目撃したのだ。

たいへんだ。教室は安保反対の安田講堂みたいになっている。

よし、いまのうちにバリケードを作るぞ、

罪人たちは一致団結し、教室の前方と後方の入り口の

引き戸に机を乗せてドアが開かないようにした。

文字通りの安田講堂ができあがったのだ。

池本先生が迫ってくる。池本先生は入り口で立ち止まり、

ドアを開けようとがたがたやっている。

が、さすがに人海戦術でこさえた柵は頑強だ、

なかなか開かない。しかし、馬鹿の小細工にも限界があり、

いよいよドアがこじ開けられた。

先生が力ずくめでドアを引いたら、

三段くらい積んだ机は雪崩のような音をたててくずれ落ち教室に散乱、

そこに逆光に浮かびあがる池本先生がいたのだ。

光がさしこむ教室は、むかしの映画館みたいに

けむりがゆっくりと動いていた。

きっと煙草臭かったにちがいない。

池本先生は散らばった机には目もくれず、

われわれのほうにずかずかと寄ってこられて、おっしゃった。

「ん、出来たか」

 高校の生活指導はなかった。

とんでもない無政府的であった。

が、生徒の自覚にまかせている部分が多分にあったので、

それでも秩序は保たれていたのだろう。

それから十一年経って、わたしは禁煙した。

 いま、煙草をやめておもうのは、

煙草というものは男、

いまでは女のひとも多いが、の持つもっとも

軽い日常品なのではないか。

すくなくとも指にはさむ最軽量なのだろう。

外出するとき、財布、定期、ハンカチ、

など体中をかるくじぶんで叩き確かめながら出てゆくわけだが、

そのとき、まず、煙草とライターを電車の運転手の

前方確認くらいしっかりしたものだ。

ライターは、デュポンもダンヒルも持てなかったから、

マルマンである。車には、

なにしろ一日五十本に耐えられる灰皿が装備されていないから、

窓にもうひとつ灰皿をとりつけてある。

 煙草をやめた日に、わたしは煙草と

ライターのことを気にせずに外出できた。

そのとき、はじめて気づいたのだ。

わたしは煙草に縛られていたのだ。

その緊縛から、いま、解放されたのだ。

禁煙は解放だったのだ。わたしの解放はわたしを開放した。

 そのうれしさは、大学に合格した春に、

おだやかな満開の桜を見上げているくらいの爽快さがあった。

これはやめた者でないとわからない。

禁煙して三日目くらい、

わたしはまだ車の窓に取り付けてあった灰皿に気づいた。

習慣からか、すっかり忘れていたのだ。

そうだ、これいらないんじゃないか。

 わたしの開放感は、この黒くて煙草くさい物体を

ただちに排除するようにわたしに命じていた。

わたしは、わたしの内部の命令に従って、

この薄汚れたプラスチックの悪意を抜き取り、

走りつづける車の窓を開け、

道ばたに向かい抛り投げたのである。

それは手榴弾のようであった。

 

 

 二伸

 梶井基次郎の『檸檬』みたいな終わり方である。