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連鎖的アラカルト

 ことばの周辺連鎖的アラカルトである。

岩崎宏美と良美姉妹がラジオに出演していた。

ふたりではじめてアルバムを作成したという。

宏美の声の透明感は天性かとおもっていたが、

どうしてどうして良美もずいぶん近づいてきた感がある。

 

 昭和の歌姫、といって思い出すのは、

美空ひばりとか、江利ちえみとか、園まり、

都はるみ、日野照子などだろうが、

昭和三十年よりあとに生まれているわたしどもには、

むしろ歌姫は、松任谷由実や中島みゆき、

あるいは岩崎宏美あたりなのではないだろうか。

ま、そのなかでも、やはり、ピアノの前でロングヘアの、

どう見てもノットジャパニーズのような、

おまけに顔の長っ細い専門用語で言えばとっても

ブスなレコードジャケットを見て驚き、

「飛行機雲~♪」とのこぎりで生木を切っているような

へんてこな声と、見事にはずした音程とにまた驚いた、

あの荒井由実、のちの松任谷由実こそ

歌姫の代表なのではないかとわたしはおもうのだ。

なぜなら、いまの高校生にもユーミンは浸透しているし、

その永続性には舌を巻くものがあるからだ。

名前を変えながら、これほど人口に

カイシャしている芸能人はそうはいないだろう。

名前を変えながらそのすべてが有名なのは、

トウキチロウ・羽柴秀吉・豊臣秀吉と、せいご・ふっこ・すずき、くらいだろう。

と、こんな話をひきのばすつもりはなく、

ことばの周辺連鎖的アラカルト、

わたしが言いたいのは歌姫という言葉である。

これは女性にかぎり存在が許されている語彙なのだが、

では、はたして男性歌手のばあいはなんと

呼ばれているのだろう。

「姫」の対立的な語は「殿」くらいか。

では、「歌殿」があるかといえばちょっと見あたらない。

殿で許容されているのは、バカ殿くらいだ。

つまり、歌は女性の専有物なのだといえるのかもしれない。

女流歌人という言い方も定着しているが、

男性歌人はない。女にあって男にないもの、

なんてなぞなぞではないが、

これはひいきとしかいいようがないのではないか。

ちなみに、室町時代のなぞなぞに

「母にあって父にないものなあに」というのがあって、

この答えが「くちびる」なのだ。むかしは、

母は、ファファと唇を噛みながら発音し、

父は、ティティと唇がつかない、

という言語学領域の音声学の研究みたいな話があるが、

知識をひけらかしてもしかたない。

ことばの周辺連鎖的アラカルト、

「『富士山』をくちびるをつけずに発音しなさい」という

現代の意地悪問題がある。

従順なひとは唇を緊張させて「ふぅ・じぃ・さ・んぅ」と

一語一語ていねいに言うのだが、

じつは、「ふじさん」はそのまま

「ふじさん」と言えば言えるのだ。これは、相手を愚弄するときにとても有効だ。

 ことばの周辺連鎖的アラカルト、

富士山は、江戸時代の書物ではほとんど、

不二山と表記された。不二の「不」は打ち消し語だから、

ふたつとない、つまりは日本一という意味をもつ。

不二家、藤子不二雄、峰不二子、みんな日本一を表している。

竹取物語では、かぐや姫から死なない薬を贈られた帝が、

月に帰った姫を偲び、日本一高い山でその不死の薬を燃やしたので、

不死山になったというくだりがある。由来はひととおりではないのだ。

 そういえば死なない薬、あれだけは飲んではいけない。

よく、子どもに死なない薬があったら飲むか、

という発問をすると、飲む、と答える子がいるが、

早計だ。不死の薬を飲んだ瞬間、

流れ弾にあたったとする。

うっ、腹にささった銃弾は内臓をえぐっている、

が死なないのだ。痛いぞ。と、そこに、

戦車が轢いていって、ぺらぺらになっちまった、

が死なないのだ。痛いぞ。

ぺらぺらだからうっかり風に飛ばされそのまま鉄条網に引っかかった、

が死なないのだ。そこを空軍がナパーム弾を落として

真っ黒焦げになっちまい、墨のかたまりになった、

が死なないのだ。墨のかたまりは、

まだ心臓だけが動いているので、

これは研究材料になると、NASAが持って帰って、

永遠、研究室のつめたい暗い部屋に保管される。

そして、墨はおもう、はやく殺してくれ、と。

その死なない墨にほんとうに同情した看護婦が、

おもいあまって包丁でざくざく刺してくれた。

ありがとう看護婦さん。でも痛い。

痛くて出血はするが、やっぱり死なないのである。

どうだい、これでも、死なない薬を飲むかい、

と子どもにもういちど聞くと、

たいがいは、いらなーい、と答えるのだ。

こういう一連の説得をわたしたちは教育と呼んでいる。

が、たまにいるんだな、死なない薬飲むかい、と聞くと、

「人に飲ます」

 それだけはやめておけよ。

ことばの周辺連鎖的アラカルト。

さいきん語尾があがって気になるのが、

「ありがとうございまーす」という売り子の女どもの、

あのひとを愚弄したような、

まったく心のこもっていない言い方である。

「ございます」は聞き手尊敬の丁寧語補助動詞なのだから、

意味も、へんな音程も不要なのに、

「ありがとうございまーす」の「まーす」ってなんだ。

それも「ありがとうござい」までがよく聞き取れないのだ。

「ありがとうござい」が、ドぉはドーナッツのド、

音符で言うとちょうど「れもんのレー」くらいだが、

「まーす」は「シぃは幸せよー」の「シ」くらいの音程なのだ。

おまけに、「ありがとうござい」は十六分音符の速さで、

「まーす」は四分音符くらいに延びている。

と、そこでわたしは気づいたのだ。

あの売り子の

「ありがとうござい、まーす」はたったひとりでする

ファンファーレだったのではないか。

「パンパカバーン・パカパ・パンパカパーン」とおんなじなのだ。

あるいは、くじ引きの「大当たりー」とおんなじなのだ。

つまり、売り子の馬鹿はファンファーレを独奏していたのである。

それなら、意味がなくても納得するではないか。

どおりで「まーす」の音程と、

江戸時代の的屋の「当・たっ・りー」の音程と似ているとおもった。